大乗仏教の重要な思想に、空観(空の思想)がある。大乗仏教の中論などの論書では、「空」を知れば、それだけで解脱するというようにも捉えられる書き方がなされている。「空」を知ることが解脱である、というように書かれた経典も存在する。
しかし「空」の解説書(論書)である「中論」を読んでも、「空」が体得できたという人を聞いたことがない。「空」の思想だけで解脱できるならば、いてもよいはずである。
「空」を理解すれば解脱できるのであれば、「中論」を読んで解脱したという人が続々と現れているはずである。しかし「空」を理解して、解脱した人というのを、ほとんど聞いたことがない。ということは、空の思想を知ることは、解脱とは関係がないということになる。
仏教でいう「空」とは「無」のことではない。よく誤解している人を見かけるのだが、「空」とは、何もない、何も存在しない、という意味ではない。
瞑想など行っている人が、瞑想の中で何もないという境地を体験をしたので、仏教の「空」を体得したと勘違いしている人すら見かけることがある。その人は空ではなく、何もないと感じる境地を体験したに過ぎない。
「空」とは何もないということではなく、この世界は存在はしているのだが、常住不変な世界ではない、常に縁によって移り変わっていく世界である、というような意味である。
常住不変なもの(変化しないもの)は、この世の中に何も存在しない。すべてのものが変化し、移り変わっていく。それがこの世界である。
仏陀は直接的には、「空」の思想を説いてはない。では、この空観はどこからきた思想であろうか。
「空」の思想は、縁起の法を、別の観点から敷衍したものなのである。ブッダはこの変化していくさまを、縁によって移り変わっていくから、縁起と呼んだのである。
「空」の思想は、縁起の法からきている。縁起の法を別の観点から見れば、「空」と見ることもできるのである。
だから、この縁起の法の体得は、論書の研究ではなく、四念処を修し体得すべきものなのである。
いくら「中論」を研究しても、「空」を体得して解脱するということは不可能である。
ブッダは何を説いたのか。どうすればブッダへ至ることができるのか。ブッダの説いたことをもとにして、ブッダへ至る道について探求していきたい。 関連する仏教的な知識も含めて、考察の対象とする予定である。
2011年6月29日水曜日
2011年6月27日月曜日
六波羅蜜との関係(2)[大乗仏教(5)]
六波羅蜜でも、三学と同じように考えることができる。
六波羅蜜の最初の4つは、すべて四正断に関係しているといえる。
1.布施波羅蜜
2.持戒波羅蜜
3.忍辱波羅蜜
4.精進波羅蜜
・四正断
・五根五力では、「精進根・精進力」。
・七覚支では、「精進覚支、喜覚支、軽安覚支」。
・八正道では、「正精進、正語、正業、正命、正思惟」
5.禅定波羅蜜
・四如意足
・五根五力では、「定根・定力」、
・七覚支では、「定覚支」
・八正道では、「正定」
6.智慧波羅蜜
・四念処
・五根五力では、「慧根・慧力」、「念根・念力」、「信根・信力」
・七覚支では、「念覚支、択法覚支、捨覚支」
・八正道では、「正念、正見」
六波羅蜜の最初の4つは、すべて四正断に関係しているといえる。
1.布施波羅蜜
2.持戒波羅蜜
3.忍辱波羅蜜
4.精進波羅蜜
・四正断
・五根五力では、「精進根・精進力」。
・七覚支では、「精進覚支、喜覚支、軽安覚支」。
・八正道では、「正精進、正語、正業、正命、正思惟」
5.禅定波羅蜜
・四如意足
・五根五力では、「定根・定力」、
・七覚支では、「定覚支」
・八正道では、「正定」
6.智慧波羅蜜
・四念処
・五根五力では、「慧根・慧力」、「念根・念力」、「信根・信力」
・七覚支では、「念覚支、択法覚支、捨覚支」
・八正道では、「正念、正見」
2011年6月25日土曜日
六波羅蜜との関係(1)[大乗仏教(4)]
大乗仏教で六波羅蜜(六度の行)とは、基本的に在家が行う6つの実践徳目のことである。
1.布施波羅蜜
分け与える。財施・無畏施・法施等である。
2.持戒波羅蜜
戒律を守る。在家の場合は五戒が基本である。
3.忍辱波羅蜜
慈悲の心で耐え忍ぶ。怒りを捨てる。
耐え忍ぶといっても、単に耐え忍ぶだけでよいのか。
4.精進波羅蜜
努力すること。
ただ仏道を精進する、頑張るといわれても、具体的には何をしたらよいのか、よくわからない。
5.禅定波羅蜜
心を集中して安定させる。四禅・四無色定。
どういう瞑想であろうか。
6.智慧波羅蜜
物事をありのままに観察することによって、智慧を得る。
智慧を得るために、どのように観察するのか、あまり述べられていない。
六波羅蜜の行により、修行者は徳を蓄積し、遠い未来生において、悟りを得るという。
これでは、あまりに先のこと過ぎるきらいがある。これでは、今、努力する気が起きるのであろうか。六波羅蜜は、総じて具体的には何をしたらよいのか、よくわからないものが多いという感じを受ける。
六波羅蜜には、在家への布施の強調があるようにも思える。六波羅蜜としてまとめることで、在家でもしやすくしたのであろう。布施、忍辱も大切ではあろうが、それのみを取り出しては、七科のなかで述べられていない。
六波羅蜜では、禅定のみが座禅のような修行だなということが分るが、他の項目の修行内容があいまいであるか不明であり、実行が難しいといえる。
内容的には、在家に対して、布施に重きを置いた行が六波羅蜜の行となっている。六波羅蜜の内容は、仏教教団への喜捨を勧めるためではないかと勘ぐられてても仕方のない内容である。
1.布施波羅蜜
分け与える。財施・無畏施・法施等である。
2.持戒波羅蜜
戒律を守る。在家の場合は五戒が基本である。
3.忍辱波羅蜜
慈悲の心で耐え忍ぶ。怒りを捨てる。
耐え忍ぶといっても、単に耐え忍ぶだけでよいのか。
4.精進波羅蜜
努力すること。
ただ仏道を精進する、頑張るといわれても、具体的には何をしたらよいのか、よくわからない。
5.禅定波羅蜜
心を集中して安定させる。四禅・四無色定。
どういう瞑想であろうか。
6.智慧波羅蜜
物事をありのままに観察することによって、智慧を得る。
智慧を得るために、どのように観察するのか、あまり述べられていない。
六波羅蜜の行により、修行者は徳を蓄積し、遠い未来生において、悟りを得るという。
これでは、あまりに先のこと過ぎるきらいがある。これでは、今、努力する気が起きるのであろうか。六波羅蜜は、総じて具体的には何をしたらよいのか、よくわからないものが多いという感じを受ける。
六波羅蜜には、在家への布施の強調があるようにも思える。六波羅蜜としてまとめることで、在家でもしやすくしたのであろう。布施、忍辱も大切ではあろうが、それのみを取り出しては、七科のなかで述べられていない。
六波羅蜜では、禅定のみが座禅のような修行だなということが分るが、他の項目の修行内容があいまいであるか不明であり、実行が難しいといえる。
内容的には、在家に対して、布施に重きを置いた行が六波羅蜜の行となっている。六波羅蜜の内容は、仏教教団への喜捨を勧めるためではないかと勘ぐられてても仕方のない内容である。
2011年6月23日木曜日
三学との関係(3)[大乗仏教(3)]
つまるところ、大乗仏教の三学「戒・定・慧」は、初期仏教の修行項目を簡略化したものである。
七科の修行を三学に対応するよう、一応当てはめてみた。
相互に関係したもの、分類しにくいものもあり、別の説も立てられるであろう。
1.戒
・四正断
・五根五力では、「精進根・精進力」。
・七覚支では、「精進覚支、喜覚支、軽安覚支」。
・八正道では、「正精進、正語、正業、正命、正思惟」
2.定
・四如意足
・五根五力では、「定根・定力」、
・七覚支では、「定覚支」
・八正道では、「正定」
3.慧
・四念処
・五根五力では、「慧根・慧力」、「念根・念力」、「信根・信力」
・七覚支では、「念覚支、択法覚支、捨覚支」
・八正道では、「正念、正見」
「戒・定・慧」と一言で言ってしまうと、少ないので分かりやすく思える反面、具体的な内容はかえって分かりにくいといえる。
三学では具体的な内容がよくわからない、というのが実情であろう。三学としてまとめると、3つだけなので覚えやすい。しかし具体的に何をしたらよいのか、分かりにくくなってもいるのである。
修行体系をまとめた全体的修行科目である、五根五力、七覚支、八正道のなかでは、五根五力が一番シンプルである。
五根五力のみに、「慧根・慧力」という智慧を表す科目がある。
五根五力は、三学との対応関係がよいともいえる。
「慧根・慧力」は「精進根・精進力」、「念根・念力」、「定根・定力」により得られた智慧を指している。
四諦、縁起の法の理解には教学だけではなく、他の修行により得られた智慧により、より深く理解できるのであり、潜在意識の中まで体得できるといえる。
七科の修行を三学に対応するよう、一応当てはめてみた。
相互に関係したもの、分類しにくいものもあり、別の説も立てられるであろう。
1.戒
・四正断
・五根五力では、「精進根・精進力」。
・七覚支では、「精進覚支、喜覚支、軽安覚支」。
・八正道では、「正精進、正語、正業、正命、正思惟」
2.定
・四如意足
・五根五力では、「定根・定力」、
・七覚支では、「定覚支」
・八正道では、「正定」
3.慧
・四念処
・五根五力では、「慧根・慧力」、「念根・念力」、「信根・信力」
・七覚支では、「念覚支、択法覚支、捨覚支」
・八正道では、「正念、正見」
「戒・定・慧」と一言で言ってしまうと、少ないので分かりやすく思える反面、具体的な内容はかえって分かりにくいといえる。
三学では具体的な内容がよくわからない、というのが実情であろう。三学としてまとめると、3つだけなので覚えやすい。しかし具体的に何をしたらよいのか、分かりにくくなってもいるのである。
修行体系をまとめた全体的修行科目である、五根五力、七覚支、八正道のなかでは、五根五力が一番シンプルである。
五根五力のみに、「慧根・慧力」という智慧を表す科目がある。
五根五力は、三学との対応関係がよいともいえる。
「慧根・慧力」は「精進根・精進力」、「念根・念力」、「定根・定力」により得られた智慧を指している。
四諦、縁起の法の理解には教学だけではなく、他の修行により得られた智慧により、より深く理解できるのであり、潜在意識の中まで体得できるといえる。
2011年6月21日火曜日
三学との関係(2)[大乗仏教(2)]
三学は、どこからでてきたものであろうか。
初期仏教の修行科目との関連をみてみよう。
1.戒
戒はしてはいけない規則をまとめた、何となく縛られるような、嫌な気がする規則というだけのものではない。
解脱の妨げとなる行為と、解脱の助けとなる行為をまとめたものである。これは四正断を別の観点からみたことで、実質的に同じものを目指している。
こういう意味で、戒には禁戒と勧戒とがある。
① 禁戒
するべきでないこと。しないほうが良いこと。(解脱するための妨げとなること)
② 勧戒
するべきこと。したほうが良いこと。(解脱するための助けとなること)
2.定
定は禅定であり、四如意足と関係が深い。
3.慧
四諦、縁起の法は、まず経典から教学として学ぶことはできる。しかし、それを学んだだけでは、「慧」にはならない。
四念処を行い、観察する瞑想によって、四諦、縁起の法を深く理解することができる。
つまり初期仏教をもとに、修行体系を簡略化し、まとめなおしたと見ることもできる。
初期仏教の修行科目との関連をみてみよう。
1.戒
戒はしてはいけない規則をまとめた、何となく縛られるような、嫌な気がする規則というだけのものではない。
解脱の妨げとなる行為と、解脱の助けとなる行為をまとめたものである。これは四正断を別の観点からみたことで、実質的に同じものを目指している。
こういう意味で、戒には禁戒と勧戒とがある。
① 禁戒
するべきでないこと。しないほうが良いこと。(解脱するための妨げとなること)
② 勧戒
するべきこと。したほうが良いこと。(解脱するための助けとなること)
2.定
定は禅定であり、四如意足と関係が深い。
3.慧
四諦、縁起の法は、まず経典から教学として学ぶことはできる。しかし、それを学んだだけでは、「慧」にはならない。
四念処を行い、観察する瞑想によって、四諦、縁起の法を深く理解することができる。
つまり初期仏教をもとに、修行体系を簡略化し、まとめなおしたと見ることもできる。
2011年6月19日日曜日
三学との関係(1)[大乗仏教(1)]
ここで、阿含経での修行内容と大乗仏教の関係についても若干、考察を加える。
大乗仏教で大切にされている三学「戒・定・慧」というものがある。この三学を修めることが、大乗の修行であるともいう。
1.戒
「戒」はいろいろあるが、基本的にするべきでないことをまとめたものである。
三蔵のなかの律蔵が、これに当たる。
2.定
「定」とは禅定である。具体的な方法はいろいろあるであろうが、とにかく禅定とだけある。
禅定の方法があいまいであり、座禅だけでよいのか、他のものもあるのか不明である。
3.慧
「慧」とは何か。これが一番分かりにくいのではなかろうか。
智慧とは何であろうか。智慧を獲得するためには、何をしたらよいのであろうか。
経典の教学を学ぶことも含まれよう。が、それだけで「慧」の獲得となるのであろうか。
四諦、縁起の法といっても、それを学んだだけで「慧」になったような気はしないし、解脱もできないではないか。
また、禅定が深まれば自動的に「慧」が獲得できるのであろうか。禅定が深まり、三昧となったときに得られるものであろうか。
しかし仏教では、三昧を体験したから解脱とはいっていない。三昧で智慧が獲得できるというわけでもなさそうである。
大乗仏教で大切にされている三学「戒・定・慧」というものがある。この三学を修めることが、大乗の修行であるともいう。
1.戒
「戒」はいろいろあるが、基本的にするべきでないことをまとめたものである。
三蔵のなかの律蔵が、これに当たる。
2.定
「定」とは禅定である。具体的な方法はいろいろあるであろうが、とにかく禅定とだけある。
禅定の方法があいまいであり、座禅だけでよいのか、他のものもあるのか不明である。
3.慧
「慧」とは何か。これが一番分かりにくいのではなかろうか。
智慧とは何であろうか。智慧を獲得するためには、何をしたらよいのであろうか。
経典の教学を学ぶことも含まれよう。が、それだけで「慧」の獲得となるのであろうか。
四諦、縁起の法といっても、それを学んだだけで「慧」になったような気はしないし、解脱もできないではないか。
また、禅定が深まれば自動的に「慧」が獲得できるのであろうか。禅定が深まり、三昧となったときに得られるものであろうか。
しかし仏教では、三昧を体験したから解脱とはいっていない。三昧で智慧が獲得できるというわけでもなさそうである。
2011年6月17日金曜日
大乗仏教との関係
大乗仏教での修行との関係性についても分析しておこう。
阿含経に説明されているニルヴァーナへと至る修行体系である、七科三十七道品を捨て去ってしまった大乗仏教において、本来の修行内容がどのように改変されているかをみてみよう。
○大乗仏教
1.三学との関係(1)
2.三学との関係(2)
3.三学との関係(3)
4.六波羅蜜との関係(1)
5.六波羅蜜との関係(2)
6.空の思想
阿含経に説明されているニルヴァーナへと至る修行体系である、七科三十七道品を捨て去ってしまった大乗仏教において、本来の修行内容がどのように改変されているかをみてみよう。
○大乗仏教
1.三学との関係(1)
2.三学との関係(2)
3.三学との関係(3)
4.六波羅蜜との関係(1)
5.六波羅蜜との関係(2)
6.空の思想
2011年6月15日水曜日
三毒と十結
仏教で煩悩とされるものについても、触れてきた。仏教で用いられる本来の用法では、煩悩とは日常語で使われるような、欲望の同義語ではない。日常語で煩悩といえば、ほとんど欲望のことを咲いているが、仏教用語としての煩悩では、欲望はごく一部の事を指しているに過ぎない。。
煩悩とは、普通は欲望とはいえない三界に結びつける執着(束縛、結)を含んだものである。
三毒(三不善根)と十結は、別々に説かれたため、どちらも煩悩とはされるが、同じ言葉を用いてはいない。ここで、その対応関係を考えてみよう。
○三毒(三不善根)
三毒は、次のものである。
① 貪(どん)
むさぼり
② 瞋(しん、じん)
怒り
③ 癡(ぎ)
無知、疑い
三毒はわかりやすく、すべての煩悩を三つにまとめたものである。三毒のなかでは、貪(むさぼり)と瞋(いかり)は、日常でも意識することのできる、誰にでもよくわかるものである。
しかし癡(疑い)は、日常的にはほとんど意識することがなく、仏教を学ばなければ意識できないものである。
○十結(五下分結と五上分結)
十結は、次のものである。
① 身見(しんけん)
私というものが不変に存在すると思うこと
② 疑惑(ぎわく)
ブッダへの疑い
③ 戒取(かいしゅ)
とらわれ、こだわり
④ 欲貪(どんよく)
貪り
⑤ 瞋恚(しんに)
怒り
⑥ 色貪(しきとん)
色界への執着(精妙な執着)
⑦ 無色貪(むしきとん)
無色界への執着(精妙な執着)
⑧ 掉挙(じょうこ)
心の高ぶり(精妙な高ぶり)
⑨ 我慢(がまん)
慢心(精妙な慢)
⑩ 無明(むみょう)
最後までわずかに残る無明(精妙な無知)
十結は、四向四果の段階に対応して、すべての煩悩を十にまとめたものである。十結をすべて断滅することが、四向四果の聖者へとなる道である。
三毒はそのままの形では、十結中では説明されていない。しかし十結の内容をよくみると、三毒の中の貪と瞋は、五下分結中に対応するものが存在する。五上分結の色貪、無色貪も、禅定の境地へのむさぼりのことである。
三毒の残りの癡に属するものが、十結の残りすべてと見ることができる。
○三毒と十結の対応関係
① 貪(むさぼり)
欲貪
色貪
無色貪
② 瞋(いかり)
瞋恚
③ 癡(無知、疑い)
身見
疑惑
戒取
掉挙
我慢
無明
煩悩については三毒と十結だけでなく、さらに多くの詳細な分類がなされた。ここではそれについてはあまりに煩雑なので述べないことにしたい。
煩悩とは、普通は欲望とはいえない三界に結びつける執着(束縛、結)を含んだものである。
三毒(三不善根)と十結は、別々に説かれたため、どちらも煩悩とはされるが、同じ言葉を用いてはいない。ここで、その対応関係を考えてみよう。
○三毒(三不善根)
三毒は、次のものである。
① 貪(どん)
むさぼり
② 瞋(しん、じん)
怒り
③ 癡(ぎ)
無知、疑い
三毒はわかりやすく、すべての煩悩を三つにまとめたものである。三毒のなかでは、貪(むさぼり)と瞋(いかり)は、日常でも意識することのできる、誰にでもよくわかるものである。
しかし癡(疑い)は、日常的にはほとんど意識することがなく、仏教を学ばなければ意識できないものである。
○十結(五下分結と五上分結)
十結は、次のものである。
① 身見(しんけん)
私というものが不変に存在すると思うこと
② 疑惑(ぎわく)
ブッダへの疑い
③ 戒取(かいしゅ)
とらわれ、こだわり
④ 欲貪(どんよく)
貪り
⑤ 瞋恚(しんに)
怒り
⑥ 色貪(しきとん)
色界への執着(精妙な執着)
⑦ 無色貪(むしきとん)
無色界への執着(精妙な執着)
⑧ 掉挙(じょうこ)
心の高ぶり(精妙な高ぶり)
⑨ 我慢(がまん)
慢心(精妙な慢)
⑩ 無明(むみょう)
最後までわずかに残る無明(精妙な無知)
十結は、四向四果の段階に対応して、すべての煩悩を十にまとめたものである。十結をすべて断滅することが、四向四果の聖者へとなる道である。
三毒はそのままの形では、十結中では説明されていない。しかし十結の内容をよくみると、三毒の中の貪と瞋は、五下分結中に対応するものが存在する。五上分結の色貪、無色貪も、禅定の境地へのむさぼりのことである。
三毒の残りの癡に属するものが、十結の残りすべてと見ることができる。
○三毒と十結の対応関係
① 貪(むさぼり)
欲貪
色貪
無色貪
② 瞋(いかり)
瞋恚
③ 癡(無知、疑い)
身見
疑惑
戒取
掉挙
我慢
無明
煩悩については三毒と十結だけでなく、さらに多くの詳細な分類がなされた。ここではそれについてはあまりに煩雑なので述べないことにしたい。
2011年6月13日月曜日
ブッダのニルヴァーナ[禅定(5)]
仏陀の亡くなるころのことを記述した経典である南伝の大パリニッパーナ経(大涅槃経)によると、不思議なことに最後にニルヴァーナに入る時に、禅定(瞑想)の最高の状態である非想非非想処(有想無想定)、あるいは滅尽定から入ったのではないことである。
非想非非想処(有想無想定)まで至ったが、またそこから初禅(第一禅)へ戻り、さらに第四禅へと至って、最後にニルヴァーナ(最終的な肉体のない解脱)へと至っている。
まず最初の禅定では、色界の初禅から第四禅へ至り、さらに無色界の空無辺処から非想非非想処へと至って、さらに最後に滅尽定まで入る。つまり次のようになる。
初禅 → 第二禅 → 第三禅 → 第四禅 → 空無辺処 → 識無辺処 → 無所有処 → 非想非非想処 → 滅尽定
そして今度は、逆に最後の滅尽定から、無色界の非想非非想処から空無辺処まで戻り、さらに色界の第四禅から初禅まで戻る。つまり最初の禅定である初禅まで戻るのである。
滅尽定 → 非想非非想処 → 無所有処 → 識無辺処 → 空無辺処 → 第四禅 → 第三禅 → 第二禅 → 初禅
再び、色界の初禅から第四禅へ至り、この第四禅から直接ニルヴァーナへと入り、ブッダは肉体を捨て去ったと記述されている。
初禅 → 第二禅 → 第三禅 → 第四禅 → ニルヴァーナ
再度、初禅から至った第四禅から、今度は無色界の禅定へとは進まず、直接ニルヴァーナへと入っている。無色界の最高の禅定である非想非非想処や、あるいは滅尽定からニルヴァーナへとは入ったのではない。なぜこのような面倒な過程を経て、ニルヴァーナへといたったのであろうか。このような話が、どうして経典に残っているのだろうか。不思議な感じを受ける話である。
根源的な煩悩である五上分結を断滅していれば、色界の第四禅からニルヴァーナへと入れるのである。
ここにも仏教とヨーガなどの解脱との違いの一つがある。ヨーガなどでの高い禅定の境地においても、色界、無色界に対する執着をまだ克服していない。色界、無色界に対する執着まで捨て去って、はじめてニルヴァーナへと入れるのである。
インド哲学(ヴェダーンタ哲学、ヨーガ哲学など)の体系が、一つの哲学体系として完成したのは、ブッダが生存していた頃より、かなり後のことである。しかしながら、その原型はブッダの時代から、ウパニシャッド哲学のような形で存在している。ヨーガの解脱と仏教の解脱にはこのように違いが認められる。
1.有余依涅槃(うよえねはん)
肉体のある状態でのニルヴァーナである。
生きている間は、肉体を維持するための、最低限の食欲、睡眠欲などの欲望は必要である。
2.無余依涅槃(むよえねはん)
肉体のなくなたった状態でのニルヴァーナである。
肉体を維持するための、最低限の食欲、睡眠欲などの欲望もなくなった状態である。
よってこの状態では、肉体を維持することはできない。
非想非非想処(有想無想定)まで至ったが、またそこから初禅(第一禅)へ戻り、さらに第四禅へと至って、最後にニルヴァーナ(最終的な肉体のない解脱)へと至っている。
まず最初の禅定では、色界の初禅から第四禅へ至り、さらに無色界の空無辺処から非想非非想処へと至って、さらに最後に滅尽定まで入る。つまり次のようになる。
初禅 → 第二禅 → 第三禅 → 第四禅 → 空無辺処 → 識無辺処 → 無所有処 → 非想非非想処 → 滅尽定
そして今度は、逆に最後の滅尽定から、無色界の非想非非想処から空無辺処まで戻り、さらに色界の第四禅から初禅まで戻る。つまり最初の禅定である初禅まで戻るのである。
滅尽定 → 非想非非想処 → 無所有処 → 識無辺処 → 空無辺処 → 第四禅 → 第三禅 → 第二禅 → 初禅
再び、色界の初禅から第四禅へ至り、この第四禅から直接ニルヴァーナへと入り、ブッダは肉体を捨て去ったと記述されている。
初禅 → 第二禅 → 第三禅 → 第四禅 → ニルヴァーナ
再度、初禅から至った第四禅から、今度は無色界の禅定へとは進まず、直接ニルヴァーナへと入っている。無色界の最高の禅定である非想非非想処や、あるいは滅尽定からニルヴァーナへとは入ったのではない。なぜこのような面倒な過程を経て、ニルヴァーナへといたったのであろうか。このような話が、どうして経典に残っているのだろうか。不思議な感じを受ける話である。
根源的な煩悩である五上分結を断滅していれば、色界の第四禅からニルヴァーナへと入れるのである。
ここにも仏教とヨーガなどの解脱との違いの一つがある。ヨーガなどでの高い禅定の境地においても、色界、無色界に対する執着をまだ克服していない。色界、無色界に対する執着まで捨て去って、はじめてニルヴァーナへと入れるのである。
インド哲学(ヴェダーンタ哲学、ヨーガ哲学など)の体系が、一つの哲学体系として完成したのは、ブッダが生存していた頃より、かなり後のことである。しかしながら、その原型はブッダの時代から、ウパニシャッド哲学のような形で存在している。ヨーガの解脱と仏教の解脱にはこのように違いが認められる。
1.有余依涅槃(うよえねはん)
肉体のある状態でのニルヴァーナである。
生きている間は、肉体を維持するための、最低限の食欲、睡眠欲などの欲望は必要である。
2.無余依涅槃(むよえねはん)
肉体のなくなたった状態でのニルヴァーナである。
肉体を維持するための、最低限の食欲、睡眠欲などの欲望もなくなった状態である。
よってこの状態では、肉体を維持することはできない。
2011年6月11日土曜日
滅尽定(想受滅)[禅定(4)]
無色界の禅定(非想非非想処)の先に、滅尽定(滅想定、滅受想定、想受滅とも呼ばれる)がある。これは、瞑想とも禅定とも呼べるかどうかもわからない状態である。すべての想いが滅した状態である。
これは色界や無色界での禅定ではない状態で、心の働きが一切尽きてなくなり、全く平穏静寂な、心のあらゆる動きが全く止滅した状態とされている。
想受滅では、心の状態が全く止滅し、身体のはたらきもその間ほとんど止まる。飲食や排泄は、もちろん、呼吸もほぼなくなり、心臓の鼓動も微細になり、肉体の活動全体がほぼ完全に休止状態となる。これを外部から見ると、瞑想の体勢で座っていても、まるで生きているのか、死んでいるのか、分らないような状態となってしまうのである。
滅尽定の中では、心のあらゆる動きが全く止滅している(ある意味、意識がない)ので、当然ながら滅尽定から醒めることを意識することもできない。滅尽定の間は、心のはたらきは何もなく、瞑想の最中に出定しようかなどと考えることもできないのである。
ではどうやって滅尽定から戻ることができるのかということだが、あらかじめ、いつ滅尽定から醒めるかを決めておくのである。決められた期間後に、滅尽定から醒めるのである。そうでないと禅定から醒めなくなってしまう。
滅尽定の状態のままで居続けられる期間は、最長七日間という。
滅尽定は在家修行者にはまず無理な状態であり、出家修行者でも難しく、滅尽定に到達できる人はまれである。滅尽定は阿羅漢(アラカン)しか達することができないといわれる。さらに阿羅漢(アラカン)になってしまうと、普通人の生活はできなくなるという。
これは色界や無色界での禅定ではない状態で、心の働きが一切尽きてなくなり、全く平穏静寂な、心のあらゆる動きが全く止滅した状態とされている。
想受滅では、心の状態が全く止滅し、身体のはたらきもその間ほとんど止まる。飲食や排泄は、もちろん、呼吸もほぼなくなり、心臓の鼓動も微細になり、肉体の活動全体がほぼ完全に休止状態となる。これを外部から見ると、瞑想の体勢で座っていても、まるで生きているのか、死んでいるのか、分らないような状態となってしまうのである。
滅尽定の中では、心のあらゆる動きが全く止滅している(ある意味、意識がない)ので、当然ながら滅尽定から醒めることを意識することもできない。滅尽定の間は、心のはたらきは何もなく、瞑想の最中に出定しようかなどと考えることもできないのである。
ではどうやって滅尽定から戻ることができるのかということだが、あらかじめ、いつ滅尽定から醒めるかを決めておくのである。決められた期間後に、滅尽定から醒めるのである。そうでないと禅定から醒めなくなってしまう。
滅尽定の状態のままで居続けられる期間は、最長七日間という。
滅尽定は在家修行者にはまず無理な状態であり、出家修行者でも難しく、滅尽定に到達できる人はまれである。滅尽定は阿羅漢(アラカン)しか達することができないといわれる。さらに阿羅漢(アラカン)になってしまうと、普通人の生活はできなくなるという。
2011年6月9日木曜日
無色界の禅定(瞑想)[禅定(3)]
無色界の禅定(瞑想)にも、やはり4つの段階がある。ここで無色界の禅定(瞑想)には「処」という言葉が使われているが、これは状態というような意味で「定」と同じような意味合いである。これは無色界での心集中の境地を四つの段階に分けて示したものである。
四如意足による集中の瞑想が必要になる。
1.空無辺処(空処定)
虚空が無限であるという禅定で、空間が無限と感じられる瞑想の境地である。
2.識無辺処(識処定)
心の識別作用が無限であるという禅定で、意識が無限と感じられる瞑想の境地である。
3.無所有処(不用定)
いかなるものもそこには存在しない、所有していないという禅定で、なにものも存在しないと感じられる瞑想の境地である。
4.非想非非想処(有想無想定)
心の表象が存在するのでもなく、存在しないものでもないという禅定で、想いがあるのでも、想いがないのでもないという瞑想の境地である。
無色界は、色界よりもさらに高い天界(天の神々の世界)とされる。無色界の最高の禅定(瞑想)である非想非非想処に至っても、禅定(瞑想)だけでは無色界に対する執着は克服できていない。
無色界の禅定には、普通人にとってはかなり瞑想の熟練を要する。無色界の禅定の深まりは、次のようになる。
空無辺処 → 識無辺処 → 無所有処 → 非想非非想処
四如意足による集中の瞑想が必要になる。
1.空無辺処(空処定)
虚空が無限であるという禅定で、空間が無限と感じられる瞑想の境地である。
2.識無辺処(識処定)
心の識別作用が無限であるという禅定で、意識が無限と感じられる瞑想の境地である。
3.無所有処(不用定)
いかなるものもそこには存在しない、所有していないという禅定で、なにものも存在しないと感じられる瞑想の境地である。
4.非想非非想処(有想無想定)
心の表象が存在するのでもなく、存在しないものでもないという禅定で、想いがあるのでも、想いがないのでもないという瞑想の境地である。
無色界は、色界よりもさらに高い天界(天の神々の世界)とされる。無色界の最高の禅定(瞑想)である非想非非想処に至っても、禅定(瞑想)だけでは無色界に対する執着は克服できていない。
無色界の禅定には、普通人にとってはかなり瞑想の熟練を要する。無色界の禅定の深まりは、次のようになる。
空無辺処 → 識無辺処 → 無所有処 → 非想非非想処
2011年6月5日日曜日
色界の禅定(瞑想)[禅定(2)]
色界の禅定(瞑想)には、4つの段階がある。これは色界での心集中の進展を四つに分けて示したものである。四念処による観察の瞑想で、この境地に到れる。
1.初禅(第一禅)
思考はまだ働いているが、一点に集中して、欲や悪などあらゆる関わりから、離れて生じた境地である。初禅には、瞑想を習慣化すれば、在家の人間にも至れるはずである。
2.第二禅
心は統一されて、思考作用がなくなり、三昧から生じる喜び、幸福に満ちた境地である。
この境地には、在家では少し長い期間、瞑想を習慣にする必要がある。
3.第三禅
心が統一され、禅定の喜びさえもなくなり、ただ平安の幸福感だけを感じている境地である。気づきはますます冴え、心は澄み渡っている。
4.第四禅
喜悦と幸福の内、残っていた落ち着いた感じや幸福感さえなくなり、苦もなくなった境地である。不苦不楽の清らかな平安のある状態である。
色界は天界(天の神々の世界)とされる。色界の最高の禅定である第四禅に至っても、禅定(瞑想)だけでは色界に対する執着は克服できていない。
色界の禅定(瞑想)には、瞑想を習慣化することで在家の人でも至りやすい。色界の禅定の深まりは、次のようになる。
初禅 → 第二禅 → 第三禅 → 第四禅
1.初禅(第一禅)
思考はまだ働いているが、一点に集中して、欲や悪などあらゆる関わりから、離れて生じた境地である。初禅には、瞑想を習慣化すれば、在家の人間にも至れるはずである。
2.第二禅
心は統一されて、思考作用がなくなり、三昧から生じる喜び、幸福に満ちた境地である。
この境地には、在家では少し長い期間、瞑想を習慣にする必要がある。
3.第三禅
心が統一され、禅定の喜びさえもなくなり、ただ平安の幸福感だけを感じている境地である。気づきはますます冴え、心は澄み渡っている。
4.第四禅
喜悦と幸福の内、残っていた落ち着いた感じや幸福感さえなくなり、苦もなくなった境地である。不苦不楽の清らかな平安のある状態である。
色界は天界(天の神々の世界)とされる。色界の最高の禅定である第四禅に至っても、禅定(瞑想)だけでは色界に対する執着は克服できていない。
色界の禅定(瞑想)には、瞑想を習慣化することで在家の人でも至りやすい。色界の禅定の深まりは、次のようになる。
初禅 → 第二禅 → 第三禅 → 第四禅
2011年6月3日金曜日
禅定(瞑想)の分類[禅定(1)]
仏教での解脱の段階である四向四果(解脱への階梯)は、禅定(ぜんじょう、瞑想)の深さそのものではなく、執着(束縛、煩悩、結)を断滅した度合いによる。このため禅定(瞑想)と四向四果とは必ずしも対応していないが、密接な関連性は存在する。禅定(瞑想)が深まらなければ、断滅できない執着(束縛、煩悩、結)が存在する。
禅定(瞑想)はヨーガなどでも到達できるが、これだけでは仏教の目標は達成できない。禅定(瞑想)だけでは、色界、無色界に対する執着(束縛、煩悩、結)は、克服できないからである。ブッダは禅定だけでは克服できない執着を断滅する道(方法)を見出したのである。これがいにしえから存在するブッダの新しい道である。
阿含経では、禅定(瞑想)には9つの段階を数え、「九次第定」(九つの禅定の段階)としている。色界の禅定が4段階、無色界の禅定が4段階、それに滅尽定(めつじんじょう、想受滅:そうじゅめつ)を加えて、9つの段階となる。
三界の一つである欲界(われわれの日常世界)に属する禅定はなく、禅定の世界はより高い世界である色界、無色界に属する。
1.色界の禅定(瞑想)
色界に属する禅定には、次の4段階(四禅)がある。
① 初禅(第一禅)
② 第二禅
③ 第三禅
④ 第四禅
2.無色界の禅定(瞑想)
無色界に属する禅定には、次の4段階がある。
① 空無辺処(空処定)
② 識無辺処(識処定)
③ 無所有処(不用定)
④ 非想非非想処(有想無想定)
3.滅尽定(想受滅)
無色界の禅定から、さらに深まった状態として、滅尽定(めつじんじょう、想受滅:そうじゅめつ)がある。
これは、心のあらゆる動きが全く止滅した状態とされている。
「観の瞑想」は、色界定といわれ、心が五官の欲や不善から離れて、物質や肉体に対しても、それを純粋なものとして眺め、そこに欲望などによる色眼鏡が加わらなくなった心の状態である。
心は一点に集中し、他の雑念が入ることなく、その対象をありのままに正しく観察することができる。
「止の瞑想」は、無色界定といわれ、心が静止して、何ものにも心を向けず、色(物質)的な考え方もなく、心がどこにも向けられず、何ものにもとらわれることなく、真実を適切に判断できる状態である。
禅定(瞑想)はヨーガなどでも到達できるが、これだけでは仏教の目標は達成できない。禅定(瞑想)だけでは、色界、無色界に対する執着(束縛、煩悩、結)は、克服できないからである。ブッダは禅定だけでは克服できない執着を断滅する道(方法)を見出したのである。これがいにしえから存在するブッダの新しい道である。
阿含経では、禅定(瞑想)には9つの段階を数え、「九次第定」(九つの禅定の段階)としている。色界の禅定が4段階、無色界の禅定が4段階、それに滅尽定(めつじんじょう、想受滅:そうじゅめつ)を加えて、9つの段階となる。
三界の一つである欲界(われわれの日常世界)に属する禅定はなく、禅定の世界はより高い世界である色界、無色界に属する。
1.色界の禅定(瞑想)
色界に属する禅定には、次の4段階(四禅)がある。
① 初禅(第一禅)
② 第二禅
③ 第三禅
④ 第四禅
2.無色界の禅定(瞑想)
無色界に属する禅定には、次の4段階がある。
① 空無辺処(空処定)
② 識無辺処(識処定)
③ 無所有処(不用定)
④ 非想非非想処(有想無想定)
3.滅尽定(想受滅)
無色界の禅定から、さらに深まった状態として、滅尽定(めつじんじょう、想受滅:そうじゅめつ)がある。
これは、心のあらゆる動きが全く止滅した状態とされている。
「観の瞑想」は、色界定といわれ、心が五官の欲や不善から離れて、物質や肉体に対しても、それを純粋なものとして眺め、そこに欲望などによる色眼鏡が加わらなくなった心の状態である。
心は一点に集中し、他の雑念が入ることなく、その対象をありのままに正しく観察することができる。
「止の瞑想」は、無色界定といわれ、心が静止して、何ものにも心を向けず、色(物質)的な考え方もなく、心がどこにも向けられず、何ものにもとらわれることなく、真実を適切に判断できる状態である。
2011年6月1日水曜日
禅定(瞑想)
解脱のための修行を行う中で、欠かせないものが禅定(ぜんじょう、瞑想)である。禅定は瞑想で到達した境地でもあり、どのような禅定(瞑想)の種類があるかについて、阿含経には詳しく説明されている。
四念処(しねんじょ)や四如意足(しにょいそく)など、禅定(瞑想)と関係の深い修行により到達できる、禅定(瞑想)の内容について説明しておこう。
○禅定(瞑想)
1.禅定(瞑想)の分類
2.色界の禅定(瞑想)
3.無色界の禅定(瞑想)
4.滅尽定(想受滅)
5.ブッダのニルヴァーナ
注)
禅定(ぜんじょう)は瞑想を意味する、ディヤーナを音写した「禅」と、意訳した「定」を合わせた言葉である。ヨーガでは、ディヤーナを静慮(じょうりょ)と訳す場合もある。
四念処(しねんじょ)や四如意足(しにょいそく)など、禅定(瞑想)と関係の深い修行により到達できる、禅定(瞑想)の内容について説明しておこう。
○禅定(瞑想)
1.禅定(瞑想)の分類
2.色界の禅定(瞑想)
3.無色界の禅定(瞑想)
4.滅尽定(想受滅)
5.ブッダのニルヴァーナ
注)
禅定(ぜんじょう)は瞑想を意味する、ディヤーナを音写した「禅」と、意訳した「定」を合わせた言葉である。ヨーガでは、ディヤーナを静慮(じょうりょ)と訳す場合もある。
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