仏陀の亡くなるころのことを記述した経典である南伝の大パリニッパーナ経(大涅槃経)によると、不思議なことに最後にニルヴァーナに入る時に、禅定(瞑想)の最高の状態である非想非非想処(有想無想定)、あるいは滅尽定から入ったのではないことである。
非想非非想処(有想無想定)まで至ったが、またそこから初禅(第一禅)へ戻り、さらに第四禅へと至って、最後にニルヴァーナ(最終的な肉体のない解脱)へと至っている。
まず最初の禅定では、色界の初禅から第四禅へ至り、さらに無色界の空無辺処から非想非非想処へと至って、さらに最後に滅尽定まで入る。つまり次のようになる。
初禅 → 第二禅 → 第三禅 → 第四禅 → 空無辺処 → 識無辺処 → 無所有処 → 非想非非想処 → 滅尽定
そして今度は、逆に最後の滅尽定から、無色界の非想非非想処から空無辺処まで戻り、さらに色界の第四禅から初禅まで戻る。つまり最初の禅定である初禅まで戻るのである。
滅尽定 → 非想非非想処 → 無所有処 → 識無辺処 → 空無辺処 → 第四禅 → 第三禅 → 第二禅 → 初禅
再び、色界の初禅から第四禅へ至り、この第四禅から直接ニルヴァーナへと入り、ブッダは肉体を捨て去ったと記述されている。
初禅 → 第二禅 → 第三禅 → 第四禅 → ニルヴァーナ
再度、初禅から至った第四禅から、今度は無色界の禅定へとは進まず、直接ニルヴァーナへと入っている。無色界の最高の禅定である非想非非想処や、あるいは滅尽定からニルヴァーナへとは入ったのではない。なぜこのような面倒な過程を経て、ニルヴァーナへといたったのであろうか。このような話が、どうして経典に残っているのだろうか。不思議な感じを受ける話である。
根源的な煩悩である五上分結を断滅していれば、色界の第四禅からニルヴァーナへと入れるのである。
ここにも仏教とヨーガなどの解脱との違いの一つがある。ヨーガなどでの高い禅定の境地においても、色界、無色界に対する執着をまだ克服していない。色界、無色界に対する執着まで捨て去って、はじめてニルヴァーナへと入れるのである。
インド哲学(ヴェダーンタ哲学、ヨーガ哲学など)の体系が、一つの哲学体系として完成したのは、ブッダが生存していた頃より、かなり後のことである。しかしながら、その原型はブッダの時代から、ウパニシャッド哲学のような形で存在している。ヨーガの解脱と仏教の解脱にはこのように違いが認められる。
1.有余依涅槃(うよえねはん)
肉体のある状態でのニルヴァーナである。
生きている間は、肉体を維持するための、最低限の食欲、睡眠欲などの欲望は必要である。
2.無余依涅槃(むよえねはん)
肉体のなくなたった状態でのニルヴァーナである。
肉体を維持するための、最低限の食欲、睡眠欲などの欲望もなくなった状態である。
よってこの状態では、肉体を維持することはできない。
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