仏教で煩悩とされるものについても、触れてきた。仏教で用いられる本来の用法では、煩悩とは日常語で使われるような、欲望の同義語ではない。日常語で煩悩といえば、ほとんど欲望のことを咲いているが、仏教用語としての煩悩では、欲望はごく一部の事を指しているに過ぎない。。
煩悩とは、普通は欲望とはいえない三界に結びつける執着(束縛、結)を含んだものである。
三毒(三不善根)と十結は、別々に説かれたため、どちらも煩悩とはされるが、同じ言葉を用いてはいない。ここで、その対応関係を考えてみよう。
○三毒(三不善根)
三毒は、次のものである。
① 貪(どん)
むさぼり
② 瞋(しん、じん)
怒り
③ 癡(ぎ)
無知、疑い
三毒はわかりやすく、すべての煩悩を三つにまとめたものである。三毒のなかでは、貪(むさぼり)と瞋(いかり)は、日常でも意識することのできる、誰にでもよくわかるものである。
しかし癡(疑い)は、日常的にはほとんど意識することがなく、仏教を学ばなければ意識できないものである。
○十結(五下分結と五上分結)
十結は、次のものである。
① 身見(しんけん)
私というものが不変に存在すると思うこと
② 疑惑(ぎわく)
ブッダへの疑い
③ 戒取(かいしゅ)
とらわれ、こだわり
④ 欲貪(どんよく)
貪り
⑤ 瞋恚(しんに)
怒り
⑥ 色貪(しきとん)
色界への執着(精妙な執着)
⑦ 無色貪(むしきとん)
無色界への執着(精妙な執着)
⑧ 掉挙(じょうこ)
心の高ぶり(精妙な高ぶり)
⑨ 我慢(がまん)
慢心(精妙な慢)
⑩ 無明(むみょう)
最後までわずかに残る無明(精妙な無知)
十結は、四向四果の段階に対応して、すべての煩悩を十にまとめたものである。十結をすべて断滅することが、四向四果の聖者へとなる道である。
三毒はそのままの形では、十結中では説明されていない。しかし十結の内容をよくみると、三毒の中の貪と瞋は、五下分結中に対応するものが存在する。五上分結の色貪、無色貪も、禅定の境地へのむさぼりのことである。
三毒の残りの癡に属するものが、十結の残りすべてと見ることができる。
○三毒と十結の対応関係
① 貪(むさぼり)
欲貪
色貪
無色貪
② 瞋(いかり)
瞋恚
③ 癡(無知、疑い)
身見
疑惑
戒取
掉挙
我慢
無明
煩悩については三毒と十結だけでなく、さらに多くの詳細な分類がなされた。ここではそれについてはあまりに煩雑なので述べないことにしたい。
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