2011年5月19日木曜日

四如意足(四神足)[基本修行科目(3)]

基本修行科目の3番目は、四如意足(四神足)である。四如意足とも、四神足とも呼ばれる。
総合修行科目のうち、「定」と訳されたものが、四如意足のことである。
五根五力の「定根・定力」、七覚支の「定覚支」、八正道の「正定」が、四如意足(四神足)のことを指す。
四如意足は、意識を集中統一する禅定の基本修行科目である。
四如意足(四神足)は次のものであり、意識を集中する禅定と関係が深い。


1.欲如意足(欲神足)
すぐれた瞑想を得ようと欲求し、意識を集中統一する。
欲(志向思念、意志力)を修習して、欲求に対して意識を集中統一し、志向し続ける。
欲求(志向)に集中統一して得られた心の静止状態は、欲三摩地という。

2.精進如意足(精進神足)
すぐれた瞑想を得ようと努力し、意識を集中統一する。
為すべきことを実行して(四正断)、精進に対して意識を集中統一し、実行し続ける。
努力に集中統一して得られた心の静止状態は、勤三摩地という。

3.心如意足(心神足)
すぐれた瞑想を得ようと心(思索)に集中し、意識を集中統一する。
心(思索)の想像に対して意識を集中統一し、想像し続ける。
心(思索)に集中統一して得られた心の静止状態は、心三摩地という。

4.観如意足(観神足)
すぐれた瞑想を得ようと、深められた洞察力をもって観察に集中し、意識を集中統一する。
思惟観察や自覚に対して意識を集中統一し、観察自覚し続ける。
観(観察力・自覚)に集中統一して得られた心の静止状態は、観三摩地という。


ブッダの解脱への修行では、一部のヨーガ修行にあるようなクンダリニーやチャクラの開発のようなことは説いていない。クンダリニーやチャクラが関連を持つことはあっても、直接的な対応関係といえるものはない。クンダリニーやチャクラの修行は、誰にでも勧められる一般的な修行ではないからと思われる。
四如意足だけで解脱ができるというわけでもない。宇宙と一体となったと感じるサマーディ(三昧)状態が、仏教の目指すニルヴァーナと同じではないからである。禅定だけでニルヴァーナへ至れるのならば、そのようにブッダは説いたはずである。禅定だけではニルヴァーナは難しいのである。

しかし禅定(意識を集中統一する瞑想)は、修行者の誰にでも必要である。これにより普段は意識していないような、潜在意識の深いところまで作用を及ぼすことができるようになる。
意識を集中統一する瞑想を行っていると、ある意味不思議な現象を引き起こす力を得ることがある。これを神通と呼ぶこともできるが、この力が得られたからといってニルヴァーナに到達したわけではない。この力で何でも好きなことができるわけでもないが、禅定が深まったことの証の一つにはなる。ヨーガや神仙道の熟達者が、不思議な現象を引き起こすのも、同じ現象である。

上座部仏教(南伝仏教)のサマタ瞑想は、禅定、つまり「定」であり、意識を集中する修行であり、四如意足(四神足)の実践ともいえる。
四如意足を正しく教えている日本の仏教教団は存在しないように思われる。各自で工夫するか、上座部仏教のサマタ瞑想を学ぶべきかもしれない。
天台止観などの「止観」の「止」(集中する瞑想)も、もともとはこれからきている禅定(瞑想法)である。禅宗の座禅、天台宗の止観、真言宗の観相や儀式次第なども関係性は深いので修行の上での参考となる。

四如意足に習熟すれば、四念処もより深く実行できるようになる。個別の基本修行科目にも、相互に関連する作用が存在するのである。
「定」は、禅定のことであるが、色界の四つの禅定、無色界の四つの禅定があり、これを達成するために四如意足が意識される。
四如意足は、特に無色界の禅定の達成に関係が深いといえるので、無色界の禅定を達成するために使われる。

注)
三摩地(さんまじ)、三昧(さんまい)は、どちらもヨーガなどの瞑想状態を表すサマーディの訳語である。漢訳された仏教経典でサマーディの訳語として、サマーディの音を漢字で音写した用語である三摩地や三昧という言葉が用いられた。
これから派生して、物事に耽溺し耽ることを表すのに「何々三昧」という言い方が生じた。

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