2011年5月28日土曜日

後世の八正道の理解[各総合修行科目の特徴(3)]

七科三十七道品の中で、最も一般によく知られたものが八正道である。後世の大乗仏教での八正道について考察してみよう。

七科三十七道品を知らない人でも、このなかの八正道は聞いたことがあるという人が多いはずである。しかし、この八正道が今は正しく行われなくなってしまっている。
意識的に正しい(と思う)ことを日常的に行う、というこの八正道の考え方は、誰にでも理解しやすい。そのために、仏教の修行というと、五根と五力や、七覚支よりも、まず八正道が広く説かれることになったと思われる。

大乗仏教が盛んになった時代でも、八正道の名前は残っており、仏教において大事なものだとも思われていた。ただし八正道は在家の道で、出家修行者が行うべき道だという認識があったのかどうかは分らない。
八正道が大事だとは思われてたが、八正道で行うべき、「正精進(四正断)」、「正念(四念処)」、「正定(四如意足)」の修行内容があいまいになり、具体的に何を行うのかはっきりしなくなったと推測される。
「正定」はまだ座禅のような精神集中と解釈されたが、「正精進」は「仏道に努力する」というあいまいな抽象的なものになり、「正念」に至っては「ひたすら仏を念ずる」などいう解釈になってしまっている。
「仏を念ずる」と解釈した人も、「仏を念ずる」とは具体的にはどうすることなのか、この内容自体よく分っていないはずである。仏を観相する、あるいは仏のことをいつも思っている、くらいに解釈しているのではないかと思われる。あれほど理知的なブッダが、解脱のために「ひたすら仏を念じよ」などと、何かよくわからないことを説くとは思えない。
大乗仏教では、ブッダの説いた八正道とはいえなくなってしまったといえる。これでは、八正道をまさに「正しく」行うことができないのである。
後世、七科三十七道品の中で、最も一般によく知られた八正道が、まさに正しく行われなくなってしまったために、仏教による解脱ができなくなってしまったのである。


ここまで、阿含経にある修行体系(七科三十七道品)を、解脱のための修行科目という観点からみると、どのような構造となっているかについて分析を行ってみた。この修行体系の分析は、七科三十七道品の具体的な内容を正しく把握するためであり、そして修行に役立てるためでもある。仏教の修行では、ブッダへ到ることこそが目的であるので、どの修行が大切なのかを意識した上で、修行を進めていくことができる。内容のよく理解できない修行など、実際にできるはずもないからである。
仏教修行者は、実際にこの修行体系に沿って修行を実践いくのであるが、単独では難しいことも多い。最初の段階では、すぐれた指導者に瞑想などの指導を請うことも大切である。もし指導が必要な場合には指導を請い、自分だけで実践可能な部分は、自己の創意工夫で前へと進むことを心がけるめきであろう。


注)
修行体系(七科三十七道品)を理解しても、現実にはどこまで取り組むことができるかという問題がある。
現代では、タイやミャンマーなどに渡り、上座部仏教で出家し、瞑想修行に取り組んでいる人もでてきている。こういう方の意見によると、本格的なヴィパッサナー瞑想などの修行を行うには、出家修行者でなければ難しいということである。在家では、どうしても入門的な修行のレベルに留まるのである。
ブッダへ至る聖者への道は、完璧な瞑想修行に取り組まなければならない、ということならば在家の普通人には、四向四果(しこうしか)の解脱への階梯に近づくことも難しくなる。上座部仏教で一生を修行に費やすとなると、ブッダへの道は、実に困難な道となってしまう。上座部仏教などで、一生を解脱のために、人生をかけて出家修行できる人はまれであろう。
在家修行者であれば、どうしても現実の生活の中で可能な修行に取り組むことしかできない。在家の普通人は、各人の可能な範囲であっても、四果四向の聖者の一端に近づきたいものである。

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