大乗仏教の重要な思想に、空観(空の思想)がある。大乗仏教の中論などの論書では、「空」を知れば、それだけで解脱するというようにも捉えられる書き方がなされている。「空」を知ることが解脱である、というように書かれた経典も存在する。
しかし「空」の解説書(論書)である「中論」を読んでも、「空」が体得できたという人を聞いたことがない。「空」の思想だけで解脱できるならば、いてもよいはずである。
「空」を理解すれば解脱できるのであれば、「中論」を読んで解脱したという人が続々と現れているはずである。しかし「空」を理解して、解脱した人というのを、ほとんど聞いたことがない。ということは、空の思想を知ることは、解脱とは関係がないということになる。
仏教でいう「空」とは「無」のことではない。よく誤解している人を見かけるのだが、「空」とは、何もない、何も存在しない、という意味ではない。
瞑想など行っている人が、瞑想の中で何もないという境地を体験をしたので、仏教の「空」を体得したと勘違いしている人すら見かけることがある。その人は空ではなく、何もないと感じる境地を体験したに過ぎない。
「空」とは何もないということではなく、この世界は存在はしているのだが、常住不変な世界ではない、常に縁によって移り変わっていく世界である、というような意味である。
常住不変なもの(変化しないもの)は、この世の中に何も存在しない。すべてのものが変化し、移り変わっていく。それがこの世界である。
仏陀は直接的には、「空」の思想を説いてはない。では、この空観はどこからきた思想であろうか。
「空」の思想は、縁起の法を、別の観点から敷衍したものなのである。ブッダはこの変化していくさまを、縁によって移り変わっていくから、縁起と呼んだのである。
「空」の思想は、縁起の法からきている。縁起の法を別の観点から見れば、「空」と見ることもできるのである。
だから、この縁起の法の体得は、論書の研究ではなく、四念処を修し体得すべきものなのである。
いくら「中論」を研究しても、「空」を体得して解脱するということは不可能である。
ブッダは何を説いたのか。どうすればブッダへ至ることができるのか。ブッダの説いたことをもとにして、ブッダへ至る道について探求していきたい。 関連する仏教的な知識も含めて、考察の対象とする予定である。
2011年6月29日水曜日
2011年6月27日月曜日
六波羅蜜との関係(2)[大乗仏教(5)]
六波羅蜜でも、三学と同じように考えることができる。
六波羅蜜の最初の4つは、すべて四正断に関係しているといえる。
1.布施波羅蜜
2.持戒波羅蜜
3.忍辱波羅蜜
4.精進波羅蜜
・四正断
・五根五力では、「精進根・精進力」。
・七覚支では、「精進覚支、喜覚支、軽安覚支」。
・八正道では、「正精進、正語、正業、正命、正思惟」
5.禅定波羅蜜
・四如意足
・五根五力では、「定根・定力」、
・七覚支では、「定覚支」
・八正道では、「正定」
6.智慧波羅蜜
・四念処
・五根五力では、「慧根・慧力」、「念根・念力」、「信根・信力」
・七覚支では、「念覚支、択法覚支、捨覚支」
・八正道では、「正念、正見」
六波羅蜜の最初の4つは、すべて四正断に関係しているといえる。
1.布施波羅蜜
2.持戒波羅蜜
3.忍辱波羅蜜
4.精進波羅蜜
・四正断
・五根五力では、「精進根・精進力」。
・七覚支では、「精進覚支、喜覚支、軽安覚支」。
・八正道では、「正精進、正語、正業、正命、正思惟」
5.禅定波羅蜜
・四如意足
・五根五力では、「定根・定力」、
・七覚支では、「定覚支」
・八正道では、「正定」
6.智慧波羅蜜
・四念処
・五根五力では、「慧根・慧力」、「念根・念力」、「信根・信力」
・七覚支では、「念覚支、択法覚支、捨覚支」
・八正道では、「正念、正見」
2011年6月25日土曜日
六波羅蜜との関係(1)[大乗仏教(4)]
大乗仏教で六波羅蜜(六度の行)とは、基本的に在家が行う6つの実践徳目のことである。
1.布施波羅蜜
分け与える。財施・無畏施・法施等である。
2.持戒波羅蜜
戒律を守る。在家の場合は五戒が基本である。
3.忍辱波羅蜜
慈悲の心で耐え忍ぶ。怒りを捨てる。
耐え忍ぶといっても、単に耐え忍ぶだけでよいのか。
4.精進波羅蜜
努力すること。
ただ仏道を精進する、頑張るといわれても、具体的には何をしたらよいのか、よくわからない。
5.禅定波羅蜜
心を集中して安定させる。四禅・四無色定。
どういう瞑想であろうか。
6.智慧波羅蜜
物事をありのままに観察することによって、智慧を得る。
智慧を得るために、どのように観察するのか、あまり述べられていない。
六波羅蜜の行により、修行者は徳を蓄積し、遠い未来生において、悟りを得るという。
これでは、あまりに先のこと過ぎるきらいがある。これでは、今、努力する気が起きるのであろうか。六波羅蜜は、総じて具体的には何をしたらよいのか、よくわからないものが多いという感じを受ける。
六波羅蜜には、在家への布施の強調があるようにも思える。六波羅蜜としてまとめることで、在家でもしやすくしたのであろう。布施、忍辱も大切ではあろうが、それのみを取り出しては、七科のなかで述べられていない。
六波羅蜜では、禅定のみが座禅のような修行だなということが分るが、他の項目の修行内容があいまいであるか不明であり、実行が難しいといえる。
内容的には、在家に対して、布施に重きを置いた行が六波羅蜜の行となっている。六波羅蜜の内容は、仏教教団への喜捨を勧めるためではないかと勘ぐられてても仕方のない内容である。
1.布施波羅蜜
分け与える。財施・無畏施・法施等である。
2.持戒波羅蜜
戒律を守る。在家の場合は五戒が基本である。
3.忍辱波羅蜜
慈悲の心で耐え忍ぶ。怒りを捨てる。
耐え忍ぶといっても、単に耐え忍ぶだけでよいのか。
4.精進波羅蜜
努力すること。
ただ仏道を精進する、頑張るといわれても、具体的には何をしたらよいのか、よくわからない。
5.禅定波羅蜜
心を集中して安定させる。四禅・四無色定。
どういう瞑想であろうか。
6.智慧波羅蜜
物事をありのままに観察することによって、智慧を得る。
智慧を得るために、どのように観察するのか、あまり述べられていない。
六波羅蜜の行により、修行者は徳を蓄積し、遠い未来生において、悟りを得るという。
これでは、あまりに先のこと過ぎるきらいがある。これでは、今、努力する気が起きるのであろうか。六波羅蜜は、総じて具体的には何をしたらよいのか、よくわからないものが多いという感じを受ける。
六波羅蜜には、在家への布施の強調があるようにも思える。六波羅蜜としてまとめることで、在家でもしやすくしたのであろう。布施、忍辱も大切ではあろうが、それのみを取り出しては、七科のなかで述べられていない。
六波羅蜜では、禅定のみが座禅のような修行だなということが分るが、他の項目の修行内容があいまいであるか不明であり、実行が難しいといえる。
内容的には、在家に対して、布施に重きを置いた行が六波羅蜜の行となっている。六波羅蜜の内容は、仏教教団への喜捨を勧めるためではないかと勘ぐられてても仕方のない内容である。
2011年6月23日木曜日
三学との関係(3)[大乗仏教(3)]
つまるところ、大乗仏教の三学「戒・定・慧」は、初期仏教の修行項目を簡略化したものである。
七科の修行を三学に対応するよう、一応当てはめてみた。
相互に関係したもの、分類しにくいものもあり、別の説も立てられるであろう。
1.戒
・四正断
・五根五力では、「精進根・精進力」。
・七覚支では、「精進覚支、喜覚支、軽安覚支」。
・八正道では、「正精進、正語、正業、正命、正思惟」
2.定
・四如意足
・五根五力では、「定根・定力」、
・七覚支では、「定覚支」
・八正道では、「正定」
3.慧
・四念処
・五根五力では、「慧根・慧力」、「念根・念力」、「信根・信力」
・七覚支では、「念覚支、択法覚支、捨覚支」
・八正道では、「正念、正見」
「戒・定・慧」と一言で言ってしまうと、少ないので分かりやすく思える反面、具体的な内容はかえって分かりにくいといえる。
三学では具体的な内容がよくわからない、というのが実情であろう。三学としてまとめると、3つだけなので覚えやすい。しかし具体的に何をしたらよいのか、分かりにくくなってもいるのである。
修行体系をまとめた全体的修行科目である、五根五力、七覚支、八正道のなかでは、五根五力が一番シンプルである。
五根五力のみに、「慧根・慧力」という智慧を表す科目がある。
五根五力は、三学との対応関係がよいともいえる。
「慧根・慧力」は「精進根・精進力」、「念根・念力」、「定根・定力」により得られた智慧を指している。
四諦、縁起の法の理解には教学だけではなく、他の修行により得られた智慧により、より深く理解できるのであり、潜在意識の中まで体得できるといえる。
七科の修行を三学に対応するよう、一応当てはめてみた。
相互に関係したもの、分類しにくいものもあり、別の説も立てられるであろう。
1.戒
・四正断
・五根五力では、「精進根・精進力」。
・七覚支では、「精進覚支、喜覚支、軽安覚支」。
・八正道では、「正精進、正語、正業、正命、正思惟」
2.定
・四如意足
・五根五力では、「定根・定力」、
・七覚支では、「定覚支」
・八正道では、「正定」
3.慧
・四念処
・五根五力では、「慧根・慧力」、「念根・念力」、「信根・信力」
・七覚支では、「念覚支、択法覚支、捨覚支」
・八正道では、「正念、正見」
「戒・定・慧」と一言で言ってしまうと、少ないので分かりやすく思える反面、具体的な内容はかえって分かりにくいといえる。
三学では具体的な内容がよくわからない、というのが実情であろう。三学としてまとめると、3つだけなので覚えやすい。しかし具体的に何をしたらよいのか、分かりにくくなってもいるのである。
修行体系をまとめた全体的修行科目である、五根五力、七覚支、八正道のなかでは、五根五力が一番シンプルである。
五根五力のみに、「慧根・慧力」という智慧を表す科目がある。
五根五力は、三学との対応関係がよいともいえる。
「慧根・慧力」は「精進根・精進力」、「念根・念力」、「定根・定力」により得られた智慧を指している。
四諦、縁起の法の理解には教学だけではなく、他の修行により得られた智慧により、より深く理解できるのであり、潜在意識の中まで体得できるといえる。
2011年6月21日火曜日
三学との関係(2)[大乗仏教(2)]
三学は、どこからでてきたものであろうか。
初期仏教の修行科目との関連をみてみよう。
1.戒
戒はしてはいけない規則をまとめた、何となく縛られるような、嫌な気がする規則というだけのものではない。
解脱の妨げとなる行為と、解脱の助けとなる行為をまとめたものである。これは四正断を別の観点からみたことで、実質的に同じものを目指している。
こういう意味で、戒には禁戒と勧戒とがある。
① 禁戒
するべきでないこと。しないほうが良いこと。(解脱するための妨げとなること)
② 勧戒
するべきこと。したほうが良いこと。(解脱するための助けとなること)
2.定
定は禅定であり、四如意足と関係が深い。
3.慧
四諦、縁起の法は、まず経典から教学として学ぶことはできる。しかし、それを学んだだけでは、「慧」にはならない。
四念処を行い、観察する瞑想によって、四諦、縁起の法を深く理解することができる。
つまり初期仏教をもとに、修行体系を簡略化し、まとめなおしたと見ることもできる。
初期仏教の修行科目との関連をみてみよう。
1.戒
戒はしてはいけない規則をまとめた、何となく縛られるような、嫌な気がする規則というだけのものではない。
解脱の妨げとなる行為と、解脱の助けとなる行為をまとめたものである。これは四正断を別の観点からみたことで、実質的に同じものを目指している。
こういう意味で、戒には禁戒と勧戒とがある。
① 禁戒
するべきでないこと。しないほうが良いこと。(解脱するための妨げとなること)
② 勧戒
するべきこと。したほうが良いこと。(解脱するための助けとなること)
2.定
定は禅定であり、四如意足と関係が深い。
3.慧
四諦、縁起の法は、まず経典から教学として学ぶことはできる。しかし、それを学んだだけでは、「慧」にはならない。
四念処を行い、観察する瞑想によって、四諦、縁起の法を深く理解することができる。
つまり初期仏教をもとに、修行体系を簡略化し、まとめなおしたと見ることもできる。
2011年6月19日日曜日
三学との関係(1)[大乗仏教(1)]
ここで、阿含経での修行内容と大乗仏教の関係についても若干、考察を加える。
大乗仏教で大切にされている三学「戒・定・慧」というものがある。この三学を修めることが、大乗の修行であるともいう。
1.戒
「戒」はいろいろあるが、基本的にするべきでないことをまとめたものである。
三蔵のなかの律蔵が、これに当たる。
2.定
「定」とは禅定である。具体的な方法はいろいろあるであろうが、とにかく禅定とだけある。
禅定の方法があいまいであり、座禅だけでよいのか、他のものもあるのか不明である。
3.慧
「慧」とは何か。これが一番分かりにくいのではなかろうか。
智慧とは何であろうか。智慧を獲得するためには、何をしたらよいのであろうか。
経典の教学を学ぶことも含まれよう。が、それだけで「慧」の獲得となるのであろうか。
四諦、縁起の法といっても、それを学んだだけで「慧」になったような気はしないし、解脱もできないではないか。
また、禅定が深まれば自動的に「慧」が獲得できるのであろうか。禅定が深まり、三昧となったときに得られるものであろうか。
しかし仏教では、三昧を体験したから解脱とはいっていない。三昧で智慧が獲得できるというわけでもなさそうである。
大乗仏教で大切にされている三学「戒・定・慧」というものがある。この三学を修めることが、大乗の修行であるともいう。
1.戒
「戒」はいろいろあるが、基本的にするべきでないことをまとめたものである。
三蔵のなかの律蔵が、これに当たる。
2.定
「定」とは禅定である。具体的な方法はいろいろあるであろうが、とにかく禅定とだけある。
禅定の方法があいまいであり、座禅だけでよいのか、他のものもあるのか不明である。
3.慧
「慧」とは何か。これが一番分かりにくいのではなかろうか。
智慧とは何であろうか。智慧を獲得するためには、何をしたらよいのであろうか。
経典の教学を学ぶことも含まれよう。が、それだけで「慧」の獲得となるのであろうか。
四諦、縁起の法といっても、それを学んだだけで「慧」になったような気はしないし、解脱もできないではないか。
また、禅定が深まれば自動的に「慧」が獲得できるのであろうか。禅定が深まり、三昧となったときに得られるものであろうか。
しかし仏教では、三昧を体験したから解脱とはいっていない。三昧で智慧が獲得できるというわけでもなさそうである。
2011年6月17日金曜日
大乗仏教との関係
大乗仏教での修行との関係性についても分析しておこう。
阿含経に説明されているニルヴァーナへと至る修行体系である、七科三十七道品を捨て去ってしまった大乗仏教において、本来の修行内容がどのように改変されているかをみてみよう。
○大乗仏教
1.三学との関係(1)
2.三学との関係(2)
3.三学との関係(3)
4.六波羅蜜との関係(1)
5.六波羅蜜との関係(2)
6.空の思想
阿含経に説明されているニルヴァーナへと至る修行体系である、七科三十七道品を捨て去ってしまった大乗仏教において、本来の修行内容がどのように改変されているかをみてみよう。
○大乗仏教
1.三学との関係(1)
2.三学との関係(2)
3.三学との関係(3)
4.六波羅蜜との関係(1)
5.六波羅蜜との関係(2)
6.空の思想
2011年6月15日水曜日
三毒と十結
仏教で煩悩とされるものについても、触れてきた。仏教で用いられる本来の用法では、煩悩とは日常語で使われるような、欲望の同義語ではない。日常語で煩悩といえば、ほとんど欲望のことを咲いているが、仏教用語としての煩悩では、欲望はごく一部の事を指しているに過ぎない。。
煩悩とは、普通は欲望とはいえない三界に結びつける執着(束縛、結)を含んだものである。
三毒(三不善根)と十結は、別々に説かれたため、どちらも煩悩とはされるが、同じ言葉を用いてはいない。ここで、その対応関係を考えてみよう。
○三毒(三不善根)
三毒は、次のものである。
① 貪(どん)
むさぼり
② 瞋(しん、じん)
怒り
③ 癡(ぎ)
無知、疑い
三毒はわかりやすく、すべての煩悩を三つにまとめたものである。三毒のなかでは、貪(むさぼり)と瞋(いかり)は、日常でも意識することのできる、誰にでもよくわかるものである。
しかし癡(疑い)は、日常的にはほとんど意識することがなく、仏教を学ばなければ意識できないものである。
○十結(五下分結と五上分結)
十結は、次のものである。
① 身見(しんけん)
私というものが不変に存在すると思うこと
② 疑惑(ぎわく)
ブッダへの疑い
③ 戒取(かいしゅ)
とらわれ、こだわり
④ 欲貪(どんよく)
貪り
⑤ 瞋恚(しんに)
怒り
⑥ 色貪(しきとん)
色界への執着(精妙な執着)
⑦ 無色貪(むしきとん)
無色界への執着(精妙な執着)
⑧ 掉挙(じょうこ)
心の高ぶり(精妙な高ぶり)
⑨ 我慢(がまん)
慢心(精妙な慢)
⑩ 無明(むみょう)
最後までわずかに残る無明(精妙な無知)
十結は、四向四果の段階に対応して、すべての煩悩を十にまとめたものである。十結をすべて断滅することが、四向四果の聖者へとなる道である。
三毒はそのままの形では、十結中では説明されていない。しかし十結の内容をよくみると、三毒の中の貪と瞋は、五下分結中に対応するものが存在する。五上分結の色貪、無色貪も、禅定の境地へのむさぼりのことである。
三毒の残りの癡に属するものが、十結の残りすべてと見ることができる。
○三毒と十結の対応関係
① 貪(むさぼり)
欲貪
色貪
無色貪
② 瞋(いかり)
瞋恚
③ 癡(無知、疑い)
身見
疑惑
戒取
掉挙
我慢
無明
煩悩については三毒と十結だけでなく、さらに多くの詳細な分類がなされた。ここではそれについてはあまりに煩雑なので述べないことにしたい。
煩悩とは、普通は欲望とはいえない三界に結びつける執着(束縛、結)を含んだものである。
三毒(三不善根)と十結は、別々に説かれたため、どちらも煩悩とはされるが、同じ言葉を用いてはいない。ここで、その対応関係を考えてみよう。
○三毒(三不善根)
三毒は、次のものである。
① 貪(どん)
むさぼり
② 瞋(しん、じん)
怒り
③ 癡(ぎ)
無知、疑い
三毒はわかりやすく、すべての煩悩を三つにまとめたものである。三毒のなかでは、貪(むさぼり)と瞋(いかり)は、日常でも意識することのできる、誰にでもよくわかるものである。
しかし癡(疑い)は、日常的にはほとんど意識することがなく、仏教を学ばなければ意識できないものである。
○十結(五下分結と五上分結)
十結は、次のものである。
① 身見(しんけん)
私というものが不変に存在すると思うこと
② 疑惑(ぎわく)
ブッダへの疑い
③ 戒取(かいしゅ)
とらわれ、こだわり
④ 欲貪(どんよく)
貪り
⑤ 瞋恚(しんに)
怒り
⑥ 色貪(しきとん)
色界への執着(精妙な執着)
⑦ 無色貪(むしきとん)
無色界への執着(精妙な執着)
⑧ 掉挙(じょうこ)
心の高ぶり(精妙な高ぶり)
⑨ 我慢(がまん)
慢心(精妙な慢)
⑩ 無明(むみょう)
最後までわずかに残る無明(精妙な無知)
十結は、四向四果の段階に対応して、すべての煩悩を十にまとめたものである。十結をすべて断滅することが、四向四果の聖者へとなる道である。
三毒はそのままの形では、十結中では説明されていない。しかし十結の内容をよくみると、三毒の中の貪と瞋は、五下分結中に対応するものが存在する。五上分結の色貪、無色貪も、禅定の境地へのむさぼりのことである。
三毒の残りの癡に属するものが、十結の残りすべてと見ることができる。
○三毒と十結の対応関係
① 貪(むさぼり)
欲貪
色貪
無色貪
② 瞋(いかり)
瞋恚
③ 癡(無知、疑い)
身見
疑惑
戒取
掉挙
我慢
無明
煩悩については三毒と十結だけでなく、さらに多くの詳細な分類がなされた。ここではそれについてはあまりに煩雑なので述べないことにしたい。
2011年6月13日月曜日
ブッダのニルヴァーナ[禅定(5)]
仏陀の亡くなるころのことを記述した経典である南伝の大パリニッパーナ経(大涅槃経)によると、不思議なことに最後にニルヴァーナに入る時に、禅定(瞑想)の最高の状態である非想非非想処(有想無想定)、あるいは滅尽定から入ったのではないことである。
非想非非想処(有想無想定)まで至ったが、またそこから初禅(第一禅)へ戻り、さらに第四禅へと至って、最後にニルヴァーナ(最終的な肉体のない解脱)へと至っている。
まず最初の禅定では、色界の初禅から第四禅へ至り、さらに無色界の空無辺処から非想非非想処へと至って、さらに最後に滅尽定まで入る。つまり次のようになる。
初禅 → 第二禅 → 第三禅 → 第四禅 → 空無辺処 → 識無辺処 → 無所有処 → 非想非非想処 → 滅尽定
そして今度は、逆に最後の滅尽定から、無色界の非想非非想処から空無辺処まで戻り、さらに色界の第四禅から初禅まで戻る。つまり最初の禅定である初禅まで戻るのである。
滅尽定 → 非想非非想処 → 無所有処 → 識無辺処 → 空無辺処 → 第四禅 → 第三禅 → 第二禅 → 初禅
再び、色界の初禅から第四禅へ至り、この第四禅から直接ニルヴァーナへと入り、ブッダは肉体を捨て去ったと記述されている。
初禅 → 第二禅 → 第三禅 → 第四禅 → ニルヴァーナ
再度、初禅から至った第四禅から、今度は無色界の禅定へとは進まず、直接ニルヴァーナへと入っている。無色界の最高の禅定である非想非非想処や、あるいは滅尽定からニルヴァーナへとは入ったのではない。なぜこのような面倒な過程を経て、ニルヴァーナへといたったのであろうか。このような話が、どうして経典に残っているのだろうか。不思議な感じを受ける話である。
根源的な煩悩である五上分結を断滅していれば、色界の第四禅からニルヴァーナへと入れるのである。
ここにも仏教とヨーガなどの解脱との違いの一つがある。ヨーガなどでの高い禅定の境地においても、色界、無色界に対する執着をまだ克服していない。色界、無色界に対する執着まで捨て去って、はじめてニルヴァーナへと入れるのである。
インド哲学(ヴェダーンタ哲学、ヨーガ哲学など)の体系が、一つの哲学体系として完成したのは、ブッダが生存していた頃より、かなり後のことである。しかしながら、その原型はブッダの時代から、ウパニシャッド哲学のような形で存在している。ヨーガの解脱と仏教の解脱にはこのように違いが認められる。
1.有余依涅槃(うよえねはん)
肉体のある状態でのニルヴァーナである。
生きている間は、肉体を維持するための、最低限の食欲、睡眠欲などの欲望は必要である。
2.無余依涅槃(むよえねはん)
肉体のなくなたった状態でのニルヴァーナである。
肉体を維持するための、最低限の食欲、睡眠欲などの欲望もなくなった状態である。
よってこの状態では、肉体を維持することはできない。
非想非非想処(有想無想定)まで至ったが、またそこから初禅(第一禅)へ戻り、さらに第四禅へと至って、最後にニルヴァーナ(最終的な肉体のない解脱)へと至っている。
まず最初の禅定では、色界の初禅から第四禅へ至り、さらに無色界の空無辺処から非想非非想処へと至って、さらに最後に滅尽定まで入る。つまり次のようになる。
初禅 → 第二禅 → 第三禅 → 第四禅 → 空無辺処 → 識無辺処 → 無所有処 → 非想非非想処 → 滅尽定
そして今度は、逆に最後の滅尽定から、無色界の非想非非想処から空無辺処まで戻り、さらに色界の第四禅から初禅まで戻る。つまり最初の禅定である初禅まで戻るのである。
滅尽定 → 非想非非想処 → 無所有処 → 識無辺処 → 空無辺処 → 第四禅 → 第三禅 → 第二禅 → 初禅
再び、色界の初禅から第四禅へ至り、この第四禅から直接ニルヴァーナへと入り、ブッダは肉体を捨て去ったと記述されている。
初禅 → 第二禅 → 第三禅 → 第四禅 → ニルヴァーナ
再度、初禅から至った第四禅から、今度は無色界の禅定へとは進まず、直接ニルヴァーナへと入っている。無色界の最高の禅定である非想非非想処や、あるいは滅尽定からニルヴァーナへとは入ったのではない。なぜこのような面倒な過程を経て、ニルヴァーナへといたったのであろうか。このような話が、どうして経典に残っているのだろうか。不思議な感じを受ける話である。
根源的な煩悩である五上分結を断滅していれば、色界の第四禅からニルヴァーナへと入れるのである。
ここにも仏教とヨーガなどの解脱との違いの一つがある。ヨーガなどでの高い禅定の境地においても、色界、無色界に対する執着をまだ克服していない。色界、無色界に対する執着まで捨て去って、はじめてニルヴァーナへと入れるのである。
インド哲学(ヴェダーンタ哲学、ヨーガ哲学など)の体系が、一つの哲学体系として完成したのは、ブッダが生存していた頃より、かなり後のことである。しかしながら、その原型はブッダの時代から、ウパニシャッド哲学のような形で存在している。ヨーガの解脱と仏教の解脱にはこのように違いが認められる。
1.有余依涅槃(うよえねはん)
肉体のある状態でのニルヴァーナである。
生きている間は、肉体を維持するための、最低限の食欲、睡眠欲などの欲望は必要である。
2.無余依涅槃(むよえねはん)
肉体のなくなたった状態でのニルヴァーナである。
肉体を維持するための、最低限の食欲、睡眠欲などの欲望もなくなった状態である。
よってこの状態では、肉体を維持することはできない。
2011年6月11日土曜日
滅尽定(想受滅)[禅定(4)]
無色界の禅定(非想非非想処)の先に、滅尽定(滅想定、滅受想定、想受滅とも呼ばれる)がある。これは、瞑想とも禅定とも呼べるかどうかもわからない状態である。すべての想いが滅した状態である。
これは色界や無色界での禅定ではない状態で、心の働きが一切尽きてなくなり、全く平穏静寂な、心のあらゆる動きが全く止滅した状態とされている。
想受滅では、心の状態が全く止滅し、身体のはたらきもその間ほとんど止まる。飲食や排泄は、もちろん、呼吸もほぼなくなり、心臓の鼓動も微細になり、肉体の活動全体がほぼ完全に休止状態となる。これを外部から見ると、瞑想の体勢で座っていても、まるで生きているのか、死んでいるのか、分らないような状態となってしまうのである。
滅尽定の中では、心のあらゆる動きが全く止滅している(ある意味、意識がない)ので、当然ながら滅尽定から醒めることを意識することもできない。滅尽定の間は、心のはたらきは何もなく、瞑想の最中に出定しようかなどと考えることもできないのである。
ではどうやって滅尽定から戻ることができるのかということだが、あらかじめ、いつ滅尽定から醒めるかを決めておくのである。決められた期間後に、滅尽定から醒めるのである。そうでないと禅定から醒めなくなってしまう。
滅尽定の状態のままで居続けられる期間は、最長七日間という。
滅尽定は在家修行者にはまず無理な状態であり、出家修行者でも難しく、滅尽定に到達できる人はまれである。滅尽定は阿羅漢(アラカン)しか達することができないといわれる。さらに阿羅漢(アラカン)になってしまうと、普通人の生活はできなくなるという。
これは色界や無色界での禅定ではない状態で、心の働きが一切尽きてなくなり、全く平穏静寂な、心のあらゆる動きが全く止滅した状態とされている。
想受滅では、心の状態が全く止滅し、身体のはたらきもその間ほとんど止まる。飲食や排泄は、もちろん、呼吸もほぼなくなり、心臓の鼓動も微細になり、肉体の活動全体がほぼ完全に休止状態となる。これを外部から見ると、瞑想の体勢で座っていても、まるで生きているのか、死んでいるのか、分らないような状態となってしまうのである。
滅尽定の中では、心のあらゆる動きが全く止滅している(ある意味、意識がない)ので、当然ながら滅尽定から醒めることを意識することもできない。滅尽定の間は、心のはたらきは何もなく、瞑想の最中に出定しようかなどと考えることもできないのである。
ではどうやって滅尽定から戻ることができるのかということだが、あらかじめ、いつ滅尽定から醒めるかを決めておくのである。決められた期間後に、滅尽定から醒めるのである。そうでないと禅定から醒めなくなってしまう。
滅尽定の状態のままで居続けられる期間は、最長七日間という。
滅尽定は在家修行者にはまず無理な状態であり、出家修行者でも難しく、滅尽定に到達できる人はまれである。滅尽定は阿羅漢(アラカン)しか達することができないといわれる。さらに阿羅漢(アラカン)になってしまうと、普通人の生活はできなくなるという。
2011年6月9日木曜日
無色界の禅定(瞑想)[禅定(3)]
無色界の禅定(瞑想)にも、やはり4つの段階がある。ここで無色界の禅定(瞑想)には「処」という言葉が使われているが、これは状態というような意味で「定」と同じような意味合いである。これは無色界での心集中の境地を四つの段階に分けて示したものである。
四如意足による集中の瞑想が必要になる。
1.空無辺処(空処定)
虚空が無限であるという禅定で、空間が無限と感じられる瞑想の境地である。
2.識無辺処(識処定)
心の識別作用が無限であるという禅定で、意識が無限と感じられる瞑想の境地である。
3.無所有処(不用定)
いかなるものもそこには存在しない、所有していないという禅定で、なにものも存在しないと感じられる瞑想の境地である。
4.非想非非想処(有想無想定)
心の表象が存在するのでもなく、存在しないものでもないという禅定で、想いがあるのでも、想いがないのでもないという瞑想の境地である。
無色界は、色界よりもさらに高い天界(天の神々の世界)とされる。無色界の最高の禅定(瞑想)である非想非非想処に至っても、禅定(瞑想)だけでは無色界に対する執着は克服できていない。
無色界の禅定には、普通人にとってはかなり瞑想の熟練を要する。無色界の禅定の深まりは、次のようになる。
空無辺処 → 識無辺処 → 無所有処 → 非想非非想処
四如意足による集中の瞑想が必要になる。
1.空無辺処(空処定)
虚空が無限であるという禅定で、空間が無限と感じられる瞑想の境地である。
2.識無辺処(識処定)
心の識別作用が無限であるという禅定で、意識が無限と感じられる瞑想の境地である。
3.無所有処(不用定)
いかなるものもそこには存在しない、所有していないという禅定で、なにものも存在しないと感じられる瞑想の境地である。
4.非想非非想処(有想無想定)
心の表象が存在するのでもなく、存在しないものでもないという禅定で、想いがあるのでも、想いがないのでもないという瞑想の境地である。
無色界は、色界よりもさらに高い天界(天の神々の世界)とされる。無色界の最高の禅定(瞑想)である非想非非想処に至っても、禅定(瞑想)だけでは無色界に対する執着は克服できていない。
無色界の禅定には、普通人にとってはかなり瞑想の熟練を要する。無色界の禅定の深まりは、次のようになる。
空無辺処 → 識無辺処 → 無所有処 → 非想非非想処
2011年6月5日日曜日
色界の禅定(瞑想)[禅定(2)]
色界の禅定(瞑想)には、4つの段階がある。これは色界での心集中の進展を四つに分けて示したものである。四念処による観察の瞑想で、この境地に到れる。
1.初禅(第一禅)
思考はまだ働いているが、一点に集中して、欲や悪などあらゆる関わりから、離れて生じた境地である。初禅には、瞑想を習慣化すれば、在家の人間にも至れるはずである。
2.第二禅
心は統一されて、思考作用がなくなり、三昧から生じる喜び、幸福に満ちた境地である。
この境地には、在家では少し長い期間、瞑想を習慣にする必要がある。
3.第三禅
心が統一され、禅定の喜びさえもなくなり、ただ平安の幸福感だけを感じている境地である。気づきはますます冴え、心は澄み渡っている。
4.第四禅
喜悦と幸福の内、残っていた落ち着いた感じや幸福感さえなくなり、苦もなくなった境地である。不苦不楽の清らかな平安のある状態である。
色界は天界(天の神々の世界)とされる。色界の最高の禅定である第四禅に至っても、禅定(瞑想)だけでは色界に対する執着は克服できていない。
色界の禅定(瞑想)には、瞑想を習慣化することで在家の人でも至りやすい。色界の禅定の深まりは、次のようになる。
初禅 → 第二禅 → 第三禅 → 第四禅
1.初禅(第一禅)
思考はまだ働いているが、一点に集中して、欲や悪などあらゆる関わりから、離れて生じた境地である。初禅には、瞑想を習慣化すれば、在家の人間にも至れるはずである。
2.第二禅
心は統一されて、思考作用がなくなり、三昧から生じる喜び、幸福に満ちた境地である。
この境地には、在家では少し長い期間、瞑想を習慣にする必要がある。
3.第三禅
心が統一され、禅定の喜びさえもなくなり、ただ平安の幸福感だけを感じている境地である。気づきはますます冴え、心は澄み渡っている。
4.第四禅
喜悦と幸福の内、残っていた落ち着いた感じや幸福感さえなくなり、苦もなくなった境地である。不苦不楽の清らかな平安のある状態である。
色界は天界(天の神々の世界)とされる。色界の最高の禅定である第四禅に至っても、禅定(瞑想)だけでは色界に対する執着は克服できていない。
色界の禅定(瞑想)には、瞑想を習慣化することで在家の人でも至りやすい。色界の禅定の深まりは、次のようになる。
初禅 → 第二禅 → 第三禅 → 第四禅
2011年6月3日金曜日
禅定(瞑想)の分類[禅定(1)]
仏教での解脱の段階である四向四果(解脱への階梯)は、禅定(ぜんじょう、瞑想)の深さそのものではなく、執着(束縛、煩悩、結)を断滅した度合いによる。このため禅定(瞑想)と四向四果とは必ずしも対応していないが、密接な関連性は存在する。禅定(瞑想)が深まらなければ、断滅できない執着(束縛、煩悩、結)が存在する。
禅定(瞑想)はヨーガなどでも到達できるが、これだけでは仏教の目標は達成できない。禅定(瞑想)だけでは、色界、無色界に対する執着(束縛、煩悩、結)は、克服できないからである。ブッダは禅定だけでは克服できない執着を断滅する道(方法)を見出したのである。これがいにしえから存在するブッダの新しい道である。
阿含経では、禅定(瞑想)には9つの段階を数え、「九次第定」(九つの禅定の段階)としている。色界の禅定が4段階、無色界の禅定が4段階、それに滅尽定(めつじんじょう、想受滅:そうじゅめつ)を加えて、9つの段階となる。
三界の一つである欲界(われわれの日常世界)に属する禅定はなく、禅定の世界はより高い世界である色界、無色界に属する。
1.色界の禅定(瞑想)
色界に属する禅定には、次の4段階(四禅)がある。
① 初禅(第一禅)
② 第二禅
③ 第三禅
④ 第四禅
2.無色界の禅定(瞑想)
無色界に属する禅定には、次の4段階がある。
① 空無辺処(空処定)
② 識無辺処(識処定)
③ 無所有処(不用定)
④ 非想非非想処(有想無想定)
3.滅尽定(想受滅)
無色界の禅定から、さらに深まった状態として、滅尽定(めつじんじょう、想受滅:そうじゅめつ)がある。
これは、心のあらゆる動きが全く止滅した状態とされている。
「観の瞑想」は、色界定といわれ、心が五官の欲や不善から離れて、物質や肉体に対しても、それを純粋なものとして眺め、そこに欲望などによる色眼鏡が加わらなくなった心の状態である。
心は一点に集中し、他の雑念が入ることなく、その対象をありのままに正しく観察することができる。
「止の瞑想」は、無色界定といわれ、心が静止して、何ものにも心を向けず、色(物質)的な考え方もなく、心がどこにも向けられず、何ものにもとらわれることなく、真実を適切に判断できる状態である。
禅定(瞑想)はヨーガなどでも到達できるが、これだけでは仏教の目標は達成できない。禅定(瞑想)だけでは、色界、無色界に対する執着(束縛、煩悩、結)は、克服できないからである。ブッダは禅定だけでは克服できない執着を断滅する道(方法)を見出したのである。これがいにしえから存在するブッダの新しい道である。
阿含経では、禅定(瞑想)には9つの段階を数え、「九次第定」(九つの禅定の段階)としている。色界の禅定が4段階、無色界の禅定が4段階、それに滅尽定(めつじんじょう、想受滅:そうじゅめつ)を加えて、9つの段階となる。
三界の一つである欲界(われわれの日常世界)に属する禅定はなく、禅定の世界はより高い世界である色界、無色界に属する。
1.色界の禅定(瞑想)
色界に属する禅定には、次の4段階(四禅)がある。
① 初禅(第一禅)
② 第二禅
③ 第三禅
④ 第四禅
2.無色界の禅定(瞑想)
無色界に属する禅定には、次の4段階がある。
① 空無辺処(空処定)
② 識無辺処(識処定)
③ 無所有処(不用定)
④ 非想非非想処(有想無想定)
3.滅尽定(想受滅)
無色界の禅定から、さらに深まった状態として、滅尽定(めつじんじょう、想受滅:そうじゅめつ)がある。
これは、心のあらゆる動きが全く止滅した状態とされている。
「観の瞑想」は、色界定といわれ、心が五官の欲や不善から離れて、物質や肉体に対しても、それを純粋なものとして眺め、そこに欲望などによる色眼鏡が加わらなくなった心の状態である。
心は一点に集中し、他の雑念が入ることなく、その対象をありのままに正しく観察することができる。
「止の瞑想」は、無色界定といわれ、心が静止して、何ものにも心を向けず、色(物質)的な考え方もなく、心がどこにも向けられず、何ものにもとらわれることなく、真実を適切に判断できる状態である。
2011年6月1日水曜日
禅定(瞑想)
解脱のための修行を行う中で、欠かせないものが禅定(ぜんじょう、瞑想)である。禅定は瞑想で到達した境地でもあり、どのような禅定(瞑想)の種類があるかについて、阿含経には詳しく説明されている。
四念処(しねんじょ)や四如意足(しにょいそく)など、禅定(瞑想)と関係の深い修行により到達できる、禅定(瞑想)の内容について説明しておこう。
○禅定(瞑想)
1.禅定(瞑想)の分類
2.色界の禅定(瞑想)
3.無色界の禅定(瞑想)
4.滅尽定(想受滅)
5.ブッダのニルヴァーナ
注)
禅定(ぜんじょう)は瞑想を意味する、ディヤーナを音写した「禅」と、意訳した「定」を合わせた言葉である。ヨーガでは、ディヤーナを静慮(じょうりょ)と訳す場合もある。
四念処(しねんじょ)や四如意足(しにょいそく)など、禅定(瞑想)と関係の深い修行により到達できる、禅定(瞑想)の内容について説明しておこう。
○禅定(瞑想)
1.禅定(瞑想)の分類
2.色界の禅定(瞑想)
3.無色界の禅定(瞑想)
4.滅尽定(想受滅)
5.ブッダのニルヴァーナ
注)
禅定(ぜんじょう)は瞑想を意味する、ディヤーナを音写した「禅」と、意訳した「定」を合わせた言葉である。ヨーガでは、ディヤーナを静慮(じょうりょ)と訳す場合もある。
2011年5月28日土曜日
後世の八正道の理解[各総合修行科目の特徴(3)]
七科三十七道品の中で、最も一般によく知られたものが八正道である。後世の大乗仏教での八正道について考察してみよう。
七科三十七道品を知らない人でも、このなかの八正道は聞いたことがあるという人が多いはずである。しかし、この八正道が今は正しく行われなくなってしまっている。
意識的に正しい(と思う)ことを日常的に行う、というこの八正道の考え方は、誰にでも理解しやすい。そのために、仏教の修行というと、五根と五力や、七覚支よりも、まず八正道が広く説かれることになったと思われる。
大乗仏教が盛んになった時代でも、八正道の名前は残っており、仏教において大事なものだとも思われていた。ただし八正道は在家の道で、出家修行者が行うべき道だという認識があったのかどうかは分らない。
八正道が大事だとは思われてたが、八正道で行うべき、「正精進(四正断)」、「正念(四念処)」、「正定(四如意足)」の修行内容があいまいになり、具体的に何を行うのかはっきりしなくなったと推測される。
「正定」はまだ座禅のような精神集中と解釈されたが、「正精進」は「仏道に努力する」というあいまいな抽象的なものになり、「正念」に至っては「ひたすら仏を念ずる」などいう解釈になってしまっている。
「仏を念ずる」と解釈した人も、「仏を念ずる」とは具体的にはどうすることなのか、この内容自体よく分っていないはずである。仏を観相する、あるいは仏のことをいつも思っている、くらいに解釈しているのではないかと思われる。あれほど理知的なブッダが、解脱のために「ひたすら仏を念じよ」などと、何かよくわからないことを説くとは思えない。
大乗仏教では、ブッダの説いた八正道とはいえなくなってしまったといえる。これでは、八正道をまさに「正しく」行うことができないのである。
後世、七科三十七道品の中で、最も一般によく知られた八正道が、まさに正しく行われなくなってしまったために、仏教による解脱ができなくなってしまったのである。
ここまで、阿含経にある修行体系(七科三十七道品)を、解脱のための修行科目という観点からみると、どのような構造となっているかについて分析を行ってみた。この修行体系の分析は、七科三十七道品の具体的な内容を正しく把握するためであり、そして修行に役立てるためでもある。仏教の修行では、ブッダへ到ることこそが目的であるので、どの修行が大切なのかを意識した上で、修行を進めていくことができる。内容のよく理解できない修行など、実際にできるはずもないからである。
仏教修行者は、実際にこの修行体系に沿って修行を実践いくのであるが、単独では難しいことも多い。最初の段階では、すぐれた指導者に瞑想などの指導を請うことも大切である。もし指導が必要な場合には指導を請い、自分だけで実践可能な部分は、自己の創意工夫で前へと進むことを心がけるめきであろう。
注)
修行体系(七科三十七道品)を理解しても、現実にはどこまで取り組むことができるかという問題がある。
現代では、タイやミャンマーなどに渡り、上座部仏教で出家し、瞑想修行に取り組んでいる人もでてきている。こういう方の意見によると、本格的なヴィパッサナー瞑想などの修行を行うには、出家修行者でなければ難しいということである。在家では、どうしても入門的な修行のレベルに留まるのである。
ブッダへ至る聖者への道は、完璧な瞑想修行に取り組まなければならない、ということならば在家の普通人には、四向四果(しこうしか)の解脱への階梯に近づくことも難しくなる。上座部仏教で一生を修行に費やすとなると、ブッダへの道は、実に困難な道となってしまう。上座部仏教などで、一生を解脱のために、人生をかけて出家修行できる人はまれであろう。
在家修行者であれば、どうしても現実の生活の中で可能な修行に取り組むことしかできない。在家の普通人は、各人の可能な範囲であっても、四果四向の聖者の一端に近づきたいものである。
七科三十七道品を知らない人でも、このなかの八正道は聞いたことがあるという人が多いはずである。しかし、この八正道が今は正しく行われなくなってしまっている。
意識的に正しい(と思う)ことを日常的に行う、というこの八正道の考え方は、誰にでも理解しやすい。そのために、仏教の修行というと、五根と五力や、七覚支よりも、まず八正道が広く説かれることになったと思われる。
大乗仏教が盛んになった時代でも、八正道の名前は残っており、仏教において大事なものだとも思われていた。ただし八正道は在家の道で、出家修行者が行うべき道だという認識があったのかどうかは分らない。
八正道が大事だとは思われてたが、八正道で行うべき、「正精進(四正断)」、「正念(四念処)」、「正定(四如意足)」の修行内容があいまいになり、具体的に何を行うのかはっきりしなくなったと推測される。
「正定」はまだ座禅のような精神集中と解釈されたが、「正精進」は「仏道に努力する」というあいまいな抽象的なものになり、「正念」に至っては「ひたすら仏を念ずる」などいう解釈になってしまっている。
「仏を念ずる」と解釈した人も、「仏を念ずる」とは具体的にはどうすることなのか、この内容自体よく分っていないはずである。仏を観相する、あるいは仏のことをいつも思っている、くらいに解釈しているのではないかと思われる。あれほど理知的なブッダが、解脱のために「ひたすら仏を念じよ」などと、何かよくわからないことを説くとは思えない。
大乗仏教では、ブッダの説いた八正道とはいえなくなってしまったといえる。これでは、八正道をまさに「正しく」行うことができないのである。
後世、七科三十七道品の中で、最も一般によく知られた八正道が、まさに正しく行われなくなってしまったために、仏教による解脱ができなくなってしまったのである。
ここまで、阿含経にある修行体系(七科三十七道品)を、解脱のための修行科目という観点からみると、どのような構造となっているかについて分析を行ってみた。この修行体系の分析は、七科三十七道品の具体的な内容を正しく把握するためであり、そして修行に役立てるためでもある。仏教の修行では、ブッダへ到ることこそが目的であるので、どの修行が大切なのかを意識した上で、修行を進めていくことができる。内容のよく理解できない修行など、実際にできるはずもないからである。
仏教修行者は、実際にこの修行体系に沿って修行を実践いくのであるが、単独では難しいことも多い。最初の段階では、すぐれた指導者に瞑想などの指導を請うことも大切である。もし指導が必要な場合には指導を請い、自分だけで実践可能な部分は、自己の創意工夫で前へと進むことを心がけるめきであろう。
注)
修行体系(七科三十七道品)を理解しても、現実にはどこまで取り組むことができるかという問題がある。
現代では、タイやミャンマーなどに渡り、上座部仏教で出家し、瞑想修行に取り組んでいる人もでてきている。こういう方の意見によると、本格的なヴィパッサナー瞑想などの修行を行うには、出家修行者でなければ難しいということである。在家では、どうしても入門的な修行のレベルに留まるのである。
ブッダへ至る聖者への道は、完璧な瞑想修行に取り組まなければならない、ということならば在家の普通人には、四向四果(しこうしか)の解脱への階梯に近づくことも難しくなる。上座部仏教で一生を修行に費やすとなると、ブッダへの道は、実に困難な道となってしまう。上座部仏教などで、一生を解脱のために、人生をかけて出家修行できる人はまれであろう。
在家修行者であれば、どうしても現実の生活の中で可能な修行に取り組むことしかできない。在家の普通人は、各人の可能な範囲であっても、四果四向の聖者の一端に近づきたいものである。
2011年5月27日金曜日
五根と五力・七覚支・八正道の違い[各総合修行科目の特徴(2)]
総合修行科目(五根と五力、七覚支、八正道)の各々の特徴をまとめておこう。
1.五根と五力
五根と五力では、ブッダへの信を持つことから始まり、四念処を実践したことによる智慧が付け加えられている。このように五根五力では、ブッダへの信があることから始めて、四正断、四念処、四如意足をシンプルに実行することに重きを置いている。
ブッダへの強い信を持つ者であれば、解脱への重要な修行に重点を置いた、四正断、四念処、四如意足をストレートに実行することができる。
2.七覚支
七覚支では、四念処の実践から始まって、それによって得られる選択力や、四正断の実践、それによって得られる喜び、四如意足の実践、それによって得られる捨て去ることなどが付け加えられている。
このように七覚支では、四念処から始めて、四念処、四正断、四如意足による、自分自身の内側の変化、気づきに重きを置いている。
四念処による自己への深い洞察と気づきから、深い瞑想へと導く修行といえる。四念処が得意ならば、自分自身の内側の変化、気づきに重き置く、この方向性を持った修行に取り組むべきである。
3.八正道
八正道では、意識して正しい見解を持つことから始まり、正しい考え、正しい言葉、正しい行動、正しい生活を意識することが付け加えられている。
このように八正道では、正しい見解を持つことから始め、日常生活のすべてに対して、正しくあるように、意識的に行動することに重きを置いている。
意識的に正しい(と思う)ことを、日々の生活の中で行う、というのが八正道の考え方である。一般人にとって、これはとても分りやすい考え方である。そのため一般には、八正道が多く説かれることになったものと思われる。
八正道においても意識的に正しいことを行う中で、四正断、四念処、四如意足の修行にも取り組んでいくのである。
1.五根と五力
五根と五力では、ブッダへの信を持つことから始まり、四念処を実践したことによる智慧が付け加えられている。このように五根五力では、ブッダへの信があることから始めて、四正断、四念処、四如意足をシンプルに実行することに重きを置いている。
ブッダへの強い信を持つ者であれば、解脱への重要な修行に重点を置いた、四正断、四念処、四如意足をストレートに実行することができる。
2.七覚支
七覚支では、四念処の実践から始まって、それによって得られる選択力や、四正断の実践、それによって得られる喜び、四如意足の実践、それによって得られる捨て去ることなどが付け加えられている。
このように七覚支では、四念処から始めて、四念処、四正断、四如意足による、自分自身の内側の変化、気づきに重きを置いている。
四念処による自己への深い洞察と気づきから、深い瞑想へと導く修行といえる。四念処が得意ならば、自分自身の内側の変化、気づきに重き置く、この方向性を持った修行に取り組むべきである。
3.八正道
八正道では、意識して正しい見解を持つことから始まり、正しい考え、正しい言葉、正しい行動、正しい生活を意識することが付け加えられている。
このように八正道では、正しい見解を持つことから始め、日常生活のすべてに対して、正しくあるように、意識的に行動することに重きを置いている。
意識的に正しい(と思う)ことを、日々の生活の中で行う、というのが八正道の考え方である。一般人にとって、これはとても分りやすい考え方である。そのため一般には、八正道が多く説かれることになったものと思われる。
八正道においても意識的に正しいことを行う中で、四正断、四念処、四如意足の修行にも取り組んでいくのである。
2011年5月26日木曜日
必須の修行科目[各総合修行科目の特徴(1)]
以上のことから、仏教で行うべき解脱のための修行科目とは何かについて、考察してみることにしよう。
仏教での基本修行科目を網羅し、まとめたものは次の総合修行科目である。
○総合修行科目
① 五根と五力
② 七覚支
③ 八正道
解脱のための必須の修行科目というものが存在する。総合修行科目の内容を詳しく見ていくと、どの総合修行科目にも基本修行科目である、四正断、四念処、四如意足が含まれている。
このことから、解脱、ニルヴァーナへと到るためには、実践する行動(四正断)、観察する瞑想(四念処)、集中する瞑想(四如意足)が、重要な修行科目として考えられていたことが分かるのである。
○必須の修行科目
① 四正断
悪を減少させ、善を増大させるための実践する行動である。
② 四念処
ものごとすべてを観察する瞑想である。
③ 四如意足
意識を集中統一する瞑想である。
この実践する行動、観察する瞑想、集中する瞑想が、解脱するための大きな要素である。
基本となる修行科目に付随して、五根と五力、七覚支、八正道のそれぞれに、さらに修行科目として、特徴的な科目が付け加えられている。
総合修行科目である、五根と五力、七覚支、八正道の各々は、同じ修行科目を含んではいても、修行のあり方・力点の置き方の違いが見て取れる。このことからも、ブッダは修行者の気質をみて、弟子に対する指導内容を変えたものと考えられる。
仏教での基本修行科目を網羅し、まとめたものは次の総合修行科目である。
○総合修行科目
① 五根と五力
② 七覚支
③ 八正道
解脱のための必須の修行科目というものが存在する。総合修行科目の内容を詳しく見ていくと、どの総合修行科目にも基本修行科目である、四正断、四念処、四如意足が含まれている。
このことから、解脱、ニルヴァーナへと到るためには、実践する行動(四正断)、観察する瞑想(四念処)、集中する瞑想(四如意足)が、重要な修行科目として考えられていたことが分かるのである。
○必須の修行科目
① 四正断
悪を減少させ、善を増大させるための実践する行動である。
② 四念処
ものごとすべてを観察する瞑想である。
③ 四如意足
意識を集中統一する瞑想である。
この実践する行動、観察する瞑想、集中する瞑想が、解脱するための大きな要素である。
基本となる修行科目に付随して、五根と五力、七覚支、八正道のそれぞれに、さらに修行科目として、特徴的な科目が付け加えられている。
総合修行科目である、五根と五力、七覚支、八正道の各々は、同じ修行科目を含んではいても、修行のあり方・力点の置き方の違いが見て取れる。このことからも、ブッダは修行者の気質をみて、弟子に対する指導内容を変えたものと考えられる。
2011年5月25日水曜日
各総合修行科目の特徴
修行体系のうち、総合修行科目の各々について、特徴を分析してみよう。
各総合修行科目には、基本修行科目すべてが含まれるという共通した特徴があるが、その各々はかなり際立った違いも見られる。
○各総合修行科目の特徴
1.必須の修行科目
2.五根と五力・七覚支・八正道の違い
3.後世の八正道の理解
各総合修行科目には、基本修行科目すべてが含まれるという共通した特徴があるが、その各々はかなり際立った違いも見られる。
○各総合修行科目の特徴
1.必須の修行科目
2.五根と五力・七覚支・八正道の違い
3.後世の八正道の理解
2011年5月23日月曜日
八正道[総合修行科目(3)]
総合修行科目の3番目は、八正道である。八正道は、八つの悟りへの正しい道である。
八正道には、四正断、四念処、四如意足が含まれているので、八正道を修行すると必然的に、四正断、四念処、四如意足も修行することになる。
八正道は、意識して正しいと思われる行動を取ることから修行を始めている。
八正道の修行は、正見(正しい見解を持つこと)から始まる。
1.正見(正しい見解)
正しい見解を持つことは、悟りへの正しい道である。
修行の最初の段階での正しい見解から、他の八正道の項目(特に正念、正定)が進むと、さらに深い正しい見解を持てるようになる。その修行段階での正しい見解というものが存在する。
正しい見解が進んでくると、三毒を断じて越えることができる。
2.正思惟(正しい考え)
正しい考えを持つことは、悟りへの正しい道である。
3.正語(正しい言葉)
正しい語を発することは、悟りへの正しい道である。
嘘偽り、人を傷つけるようなことを話さず、真実のみを愛を持って述べる。
4.正業(正しい行為)
正しい行為をなすことは、悟りへの正しい道である。
5.正命(正しい生活)
正しい生活を行うことは、悟りへの正しい道である。
6.正精進(正しい四正断)
四正断(断断、律儀断、随護断、修断)のことで、実践する行動は悟りへの正しい道である。
7.正念(正しい四念処)
四念処(身念処、受念処、心念処、法念処)のことで、観察する瞑想は悟りへの正しい道である。
8.正定(正しい四如意足・禅定)
四如意足(欲如意足、精進如意足、心如意足、観如意足)のことで、集中する瞑想は悟りへの正しい道である。
八正道では、正しい見解を持つことから始め、日常生活のすべてに対して、正しくあるように、意識的に行動する。
意識的に正しい(と思われる)ことを、日々の生活の中で行う、というのが八正道の考え方である。これはとても分りやすい考え方であり、八正道が多く説かれている理由もここにあると思われる。
ただし八正道においても意識的に正しいことを行うだけでなく、四正断、四念処、四如意足の修行にも取り組んでいくのである。
八正道では、正しい見解を持ち日常生活のすべてに対して正しくあるように意識的に行動することを目指す。ここで何が正しいか、どう考えることが正しいのか、どう行動することが正しいことなのか、ということが問題となる。正しいことは何かを考えるなら、目的である解脱ということを重視しなればならない。解脱という視点から考えると、解脱を助けるものが正しいことであり、解脱を妨げるものが正しくないことである。心を平安に保ち執着(煩悩、結)を減少させる事が正しいことであり、心を乱し執着(煩悩、結)を増大させる事が正しくないことといえる。正しい行動や考え方、正しい生活ができるようになるためには、戒を意識した生活をすることが必要になる。こういう視点(これが正しい見解となる)から、正しくあるように意識的に行動するのである。
八正道には、四正断、四念処、四如意足が含まれているので、八正道を修行すると必然的に、四正断、四念処、四如意足も修行することになる。
八正道は、意識して正しいと思われる行動を取ることから修行を始めている。
八正道の修行は、正見(正しい見解を持つこと)から始まる。
1.正見(正しい見解)
正しい見解を持つことは、悟りへの正しい道である。
修行の最初の段階での正しい見解から、他の八正道の項目(特に正念、正定)が進むと、さらに深い正しい見解を持てるようになる。その修行段階での正しい見解というものが存在する。
正しい見解が進んでくると、三毒を断じて越えることができる。
2.正思惟(正しい考え)
正しい考えを持つことは、悟りへの正しい道である。
3.正語(正しい言葉)
正しい語を発することは、悟りへの正しい道である。
嘘偽り、人を傷つけるようなことを話さず、真実のみを愛を持って述べる。
4.正業(正しい行為)
正しい行為をなすことは、悟りへの正しい道である。
5.正命(正しい生活)
正しい生活を行うことは、悟りへの正しい道である。
6.正精進(正しい四正断)
四正断(断断、律儀断、随護断、修断)のことで、実践する行動は悟りへの正しい道である。
7.正念(正しい四念処)
四念処(身念処、受念処、心念処、法念処)のことで、観察する瞑想は悟りへの正しい道である。
8.正定(正しい四如意足・禅定)
四如意足(欲如意足、精進如意足、心如意足、観如意足)のことで、集中する瞑想は悟りへの正しい道である。
八正道では、正しい見解を持つことから始め、日常生活のすべてに対して、正しくあるように、意識的に行動する。
意識的に正しい(と思われる)ことを、日々の生活の中で行う、というのが八正道の考え方である。これはとても分りやすい考え方であり、八正道が多く説かれている理由もここにあると思われる。
ただし八正道においても意識的に正しいことを行うだけでなく、四正断、四念処、四如意足の修行にも取り組んでいくのである。
八正道では、正しい見解を持ち日常生活のすべてに対して正しくあるように意識的に行動することを目指す。ここで何が正しいか、どう考えることが正しいのか、どう行動することが正しいことなのか、ということが問題となる。正しいことは何かを考えるなら、目的である解脱ということを重視しなればならない。解脱という視点から考えると、解脱を助けるものが正しいことであり、解脱を妨げるものが正しくないことである。心を平安に保ち執着(煩悩、結)を減少させる事が正しいことであり、心を乱し執着(煩悩、結)を増大させる事が正しくないことといえる。正しい行動や考え方、正しい生活ができるようになるためには、戒を意識した生活をすることが必要になる。こういう視点(これが正しい見解となる)から、正しくあるように意識的に行動するのである。
2011年5月22日日曜日
七覚支[総合修行科目(2)]
総合修行科目の2番目は、七覚支である。七覚支は、七つの悟りのための支分(方法)である。
七覚支には、四正断、四念処、四如意足が含まれているので、七覚支を修行すると必然的に、四正断、四念処、四如意足も修行することになる。
七覚支は、四念処の実践から修行を始めている。
七覚支の修行は、四念処から始まる。
1.念覚支(四念処による悟りへの方法)
四念処(身念処、受念処、心念処、法念処)のことで、観察する瞑想による悟りへの方法である。
2.択法覚支(選択による悟りへの方法)
四念処を実習することで、悪を捨て、善を選ぶことができるようになる。選択することができるようになると、選択することが悟りへの方法となる。
四念処から、さらに発展したものである。
3.精進覚支(四正断による悟りへの方法)
四正断(断断、律儀断、随護断、修断)のことで、実践する行動による悟りへの方法である。
4.喜覚支(喜びによる悟りへの方法)
四正断を実践することで、心の中に喜びが生まれる。喜びが生まれると、喜びが悟りへの方法となる。
四正断から、さらに発展したものである。
5.軽安覚支(軽やかさによる悟りへの方法)
喜覚支を経験すると、さらに心が落ち着いて、心身が軽やかになる。軽やかになると、軽やかさが悟りへの方法となる。
四正断から、さらに発展したものである。
6.定覚支(四如意足・禅定による悟りへの方法)
四如意足(欲如意足、精進如意足、心如意足、観如意足)のことで、集中する瞑想による悟りへの方法である。
7.捨覚支(捨てさることによる悟りへの方法)
定覚支により、対象への執着がない状態となり、すべてを捨てさることができるようになる。すべてを捨てさることができるようになると、捨てさることが悟りへの方法となる。
四如意足から、さらに発展したものである。
七覚支は、四念処による自己への観察と気づきから、深い瞑想へと導く修行といえる。自分自身の内側の変化、気づきに重き置いた修行である。
七覚支には、四正断、四念処、四如意足が含まれているので、七覚支を修行すると必然的に、四正断、四念処、四如意足も修行することになる。
七覚支は、四念処の実践から修行を始めている。
七覚支の修行は、四念処から始まる。
1.念覚支(四念処による悟りへの方法)
四念処(身念処、受念処、心念処、法念処)のことで、観察する瞑想による悟りへの方法である。
2.択法覚支(選択による悟りへの方法)
四念処を実習することで、悪を捨て、善を選ぶことができるようになる。選択することができるようになると、選択することが悟りへの方法となる。
四念処から、さらに発展したものである。
3.精進覚支(四正断による悟りへの方法)
四正断(断断、律儀断、随護断、修断)のことで、実践する行動による悟りへの方法である。
4.喜覚支(喜びによる悟りへの方法)
四正断を実践することで、心の中に喜びが生まれる。喜びが生まれると、喜びが悟りへの方法となる。
四正断から、さらに発展したものである。
5.軽安覚支(軽やかさによる悟りへの方法)
喜覚支を経験すると、さらに心が落ち着いて、心身が軽やかになる。軽やかになると、軽やかさが悟りへの方法となる。
四正断から、さらに発展したものである。
6.定覚支(四如意足・禅定による悟りへの方法)
四如意足(欲如意足、精進如意足、心如意足、観如意足)のことで、集中する瞑想による悟りへの方法である。
7.捨覚支(捨てさることによる悟りへの方法)
定覚支により、対象への執着がない状態となり、すべてを捨てさることができるようになる。すべてを捨てさることができるようになると、捨てさることが悟りへの方法となる。
四如意足から、さらに発展したものである。
七覚支は、四念処による自己への観察と気づきから、深い瞑想へと導く修行といえる。自分自身の内側の変化、気づきに重き置いた修行である。
2011年5月21日土曜日
五根と五力[総合修行科目(1)]
総合修行科目の1番目は、五根と五力である。
五根と五力は、五つの修行の基礎能力と、その修行の結果得られた五つの発揮できる力のことである。
五根は、次の五つの修行科目である。
① 信根(信の根)
② 精進根(四正断の根)
③ 念根(四念処の根)
④ 定根(四如意足の根)
⑤ 慧根(智慧の根)
五力は、次の五つの修行科目である。
① 信力(信の力)
② 精進力(四正断の力)
③ 念力(四念処の力)
④ 定力(四如意足の力)
⑤ 慧力(智慧の力)
五根と五力は、末尾に付く「根」と「力」が違うだけで、まったく同じ修行科目を指している。五根と五力は、密接に関係しており、修行科目としての内容はほとんど同じである。そのため、ここでは一体の修行体系として扱う。
五根と五力には、四正断、四念処、四如意足が含まれているので、五根と五力を修行すると必然的に、四正断、四念処、四如意足も修行することになる。
五根と五力は、ブッダに対する強い信(信頼)を持つことから修行を始めている。
五根と五力は、まずブッダに対する「信」による基礎能力と発揮できる力から始まる。
1.信根・信力(信による基礎能力と力)
ブッダに対する「信」、さらには三宝(仏法僧)への信による基礎能力と発揮できる力のことである。
2.精進根・精進力(四正断による基礎能力と力)
四正断(断断、律儀断、随護断、修断)のことで、実践する行動による基礎能力と発揮できる力のことである。
3.念根・念力(四念処による基礎能力と力)
四念処(身念処、受念処、心念処、法念処)のことで、観察する瞑想による基礎能力と発揮できる力のことである。
4.定根・定力(四如意足・禅定による基礎能力と力)
四如意足(欲如意足、精進如意足、心如意足、観如意足)のことで、集中する瞑想による基礎能力と発揮できる力のことである。
5.慧根・慧力(智慧による基礎能力と力)
智慧は、深まった禅定の力によって観察することにより得られた洞察力、基礎能力と発揮できる力のことである。
深まった禅定の力によって、縁起の法、四諦等を観察し、洞察して三毒(十結)を断滅することができる。五根と五力では、禅定とそれによる観察によって、智慧を得ることを目指している。
四向四果の最終段階である阿羅漢(アラカン)の段階に至るためには、精妙な煩悩(普通の意味の欲望のことではない)である五上分結を断じなければならない。このためには、深まった禅定の力と深まった観察する力によって得られた智慧の力が必要になる。この智慧の力によって、五上分結を最終的に断滅する。
五根と五力については、なぜブッダは、同じような内容の修行科目であるにもかかわらず、五根と五力に分けたのか、という問題がある。
分けた理由であるが、まず修行の基礎能力を開発する段階が五根であり、基礎能力を十分に収めて、その結果としての力を発揮できるようになった段階を五力と呼んだからではないかと思われる。五根の段階では、まだ基礎能力を養成する段階であり、力までは発揮できない。五力の段階になって、はじめて力を発揮することができる。この発揮する程度にかなり差があるので、五根と五力に分けたと思われる。
特に深い集中する瞑想である四如意足を修めると、不思議な力(神通力)を発揮できるようにもなる。ただし気をつけなければいけないのは、これが仏教の目的ではないことである。
七覚支や八正道でも、深い四如意足を修めれば力を発揮するであろうが、五力では智慧を得ることを目指すため、その力の発揮する度合いが顕著であったと思われる。
五根と五力は、五つの修行の基礎能力と、その修行の結果得られた五つの発揮できる力のことである。
五根は、次の五つの修行科目である。
① 信根(信の根)
② 精進根(四正断の根)
③ 念根(四念処の根)
④ 定根(四如意足の根)
⑤ 慧根(智慧の根)
五力は、次の五つの修行科目である。
① 信力(信の力)
② 精進力(四正断の力)
③ 念力(四念処の力)
④ 定力(四如意足の力)
⑤ 慧力(智慧の力)
五根と五力は、末尾に付く「根」と「力」が違うだけで、まったく同じ修行科目を指している。五根と五力は、密接に関係しており、修行科目としての内容はほとんど同じである。そのため、ここでは一体の修行体系として扱う。
五根と五力には、四正断、四念処、四如意足が含まれているので、五根と五力を修行すると必然的に、四正断、四念処、四如意足も修行することになる。
五根と五力は、ブッダに対する強い信(信頼)を持つことから修行を始めている。
五根と五力は、まずブッダに対する「信」による基礎能力と発揮できる力から始まる。
1.信根・信力(信による基礎能力と力)
ブッダに対する「信」、さらには三宝(仏法僧)への信による基礎能力と発揮できる力のことである。
2.精進根・精進力(四正断による基礎能力と力)
四正断(断断、律儀断、随護断、修断)のことで、実践する行動による基礎能力と発揮できる力のことである。
3.念根・念力(四念処による基礎能力と力)
四念処(身念処、受念処、心念処、法念処)のことで、観察する瞑想による基礎能力と発揮できる力のことである。
4.定根・定力(四如意足・禅定による基礎能力と力)
四如意足(欲如意足、精進如意足、心如意足、観如意足)のことで、集中する瞑想による基礎能力と発揮できる力のことである。
5.慧根・慧力(智慧による基礎能力と力)
智慧は、深まった禅定の力によって観察することにより得られた洞察力、基礎能力と発揮できる力のことである。
深まった禅定の力によって、縁起の法、四諦等を観察し、洞察して三毒(十結)を断滅することができる。五根と五力では、禅定とそれによる観察によって、智慧を得ることを目指している。
四向四果の最終段階である阿羅漢(アラカン)の段階に至るためには、精妙な煩悩(普通の意味の欲望のことではない)である五上分結を断じなければならない。このためには、深まった禅定の力と深まった観察する力によって得られた智慧の力が必要になる。この智慧の力によって、五上分結を最終的に断滅する。
五根と五力については、なぜブッダは、同じような内容の修行科目であるにもかかわらず、五根と五力に分けたのか、という問題がある。
分けた理由であるが、まず修行の基礎能力を開発する段階が五根であり、基礎能力を十分に収めて、その結果としての力を発揮できるようになった段階を五力と呼んだからではないかと思われる。五根の段階では、まだ基礎能力を養成する段階であり、力までは発揮できない。五力の段階になって、はじめて力を発揮することができる。この発揮する程度にかなり差があるので、五根と五力に分けたと思われる。
特に深い集中する瞑想である四如意足を修めると、不思議な力(神通力)を発揮できるようにもなる。ただし気をつけなければいけないのは、これが仏教の目的ではないことである。
七覚支や八正道でも、深い四如意足を修めれば力を発揮するであろうが、五力では智慧を得ることを目指すため、その力の発揮する度合いが顕著であったと思われる。
2011年5月20日金曜日
総合修行科目
修行体系のうち、総合修行科目の各々について詳しくみていくことにしよう。
各総合修行科目には、各基本修行科目のすべての内容が含まれている。
各総合修行科目の内容には、基本修行科目が含まれているため重複する部分があり、すべての総合修行科目を修行する必要はない。自分にあったどれかの総合修行科目を選んで修行すれば、必要なすべての基本修行科目が含まれていることになる。
総合修行科目には、次の3つ(五根と五力を分ければ4つ)の修行科目がある。
○総合修行科目
1.五根と五力
2.七覚支
3.八正道
各総合修行科目には、各基本修行科目のすべての内容が含まれている。
各総合修行科目の内容には、基本修行科目が含まれているため重複する部分があり、すべての総合修行科目を修行する必要はない。自分にあったどれかの総合修行科目を選んで修行すれば、必要なすべての基本修行科目が含まれていることになる。
総合修行科目には、次の3つ(五根と五力を分ければ4つ)の修行科目がある。
○総合修行科目
1.五根と五力
2.七覚支
3.八正道
2011年5月19日木曜日
四如意足(四神足)[基本修行科目(3)]
基本修行科目の3番目は、四如意足(四神足)である。四如意足とも、四神足とも呼ばれる。
総合修行科目のうち、「定」と訳されたものが、四如意足のことである。
五根五力の「定根・定力」、七覚支の「定覚支」、八正道の「正定」が、四如意足(四神足)のことを指す。
四如意足は、意識を集中統一する禅定の基本修行科目である。
四如意足(四神足)は次のものであり、意識を集中する禅定と関係が深い。
1.欲如意足(欲神足)
すぐれた瞑想を得ようと欲求し、意識を集中統一する。
欲(志向思念、意志力)を修習して、欲求に対して意識を集中統一し、志向し続ける。
欲求(志向)に集中統一して得られた心の静止状態は、欲三摩地という。
2.精進如意足(精進神足)
すぐれた瞑想を得ようと努力し、意識を集中統一する。
為すべきことを実行して(四正断)、精進に対して意識を集中統一し、実行し続ける。
努力に集中統一して得られた心の静止状態は、勤三摩地という。
3.心如意足(心神足)
すぐれた瞑想を得ようと心(思索)に集中し、意識を集中統一する。
心(思索)の想像に対して意識を集中統一し、想像し続ける。
心(思索)に集中統一して得られた心の静止状態は、心三摩地という。
4.観如意足(観神足)
すぐれた瞑想を得ようと、深められた洞察力をもって観察に集中し、意識を集中統一する。
思惟観察や自覚に対して意識を集中統一し、観察自覚し続ける。
観(観察力・自覚)に集中統一して得られた心の静止状態は、観三摩地という。
ブッダの解脱への修行では、一部のヨーガ修行にあるようなクンダリニーやチャクラの開発のようなことは説いていない。クンダリニーやチャクラが関連を持つことはあっても、直接的な対応関係といえるものはない。クンダリニーやチャクラの修行は、誰にでも勧められる一般的な修行ではないからと思われる。
四如意足だけで解脱ができるというわけでもない。宇宙と一体となったと感じるサマーディ(三昧)状態が、仏教の目指すニルヴァーナと同じではないからである。禅定だけでニルヴァーナへ至れるのならば、そのようにブッダは説いたはずである。禅定だけではニルヴァーナは難しいのである。
しかし禅定(意識を集中統一する瞑想)は、修行者の誰にでも必要である。これにより普段は意識していないような、潜在意識の深いところまで作用を及ぼすことができるようになる。
意識を集中統一する瞑想を行っていると、ある意味不思議な現象を引き起こす力を得ることがある。これを神通と呼ぶこともできるが、この力が得られたからといってニルヴァーナに到達したわけではない。この力で何でも好きなことができるわけでもないが、禅定が深まったことの証の一つにはなる。ヨーガや神仙道の熟達者が、不思議な現象を引き起こすのも、同じ現象である。
上座部仏教(南伝仏教)のサマタ瞑想は、禅定、つまり「定」であり、意識を集中する修行であり、四如意足(四神足)の実践ともいえる。
四如意足を正しく教えている日本の仏教教団は存在しないように思われる。各自で工夫するか、上座部仏教のサマタ瞑想を学ぶべきかもしれない。
天台止観などの「止観」の「止」(集中する瞑想)も、もともとはこれからきている禅定(瞑想法)である。禅宗の座禅、天台宗の止観、真言宗の観相や儀式次第なども関係性は深いので修行の上での参考となる。
四如意足に習熟すれば、四念処もより深く実行できるようになる。個別の基本修行科目にも、相互に関連する作用が存在するのである。
「定」は、禅定のことであるが、色界の四つの禅定、無色界の四つの禅定があり、これを達成するために四如意足が意識される。
四如意足は、特に無色界の禅定の達成に関係が深いといえるので、無色界の禅定を達成するために使われる。
注)
三摩地(さんまじ)、三昧(さんまい)は、どちらもヨーガなどの瞑想状態を表すサマーディの訳語である。漢訳された仏教経典でサマーディの訳語として、サマーディの音を漢字で音写した用語である三摩地や三昧という言葉が用いられた。
これから派生して、物事に耽溺し耽ることを表すのに「何々三昧」という言い方が生じた。
総合修行科目のうち、「定」と訳されたものが、四如意足のことである。
五根五力の「定根・定力」、七覚支の「定覚支」、八正道の「正定」が、四如意足(四神足)のことを指す。
四如意足は、意識を集中統一する禅定の基本修行科目である。
四如意足(四神足)は次のものであり、意識を集中する禅定と関係が深い。
1.欲如意足(欲神足)
すぐれた瞑想を得ようと欲求し、意識を集中統一する。
欲(志向思念、意志力)を修習して、欲求に対して意識を集中統一し、志向し続ける。
欲求(志向)に集中統一して得られた心の静止状態は、欲三摩地という。
2.精進如意足(精進神足)
すぐれた瞑想を得ようと努力し、意識を集中統一する。
為すべきことを実行して(四正断)、精進に対して意識を集中統一し、実行し続ける。
努力に集中統一して得られた心の静止状態は、勤三摩地という。
3.心如意足(心神足)
すぐれた瞑想を得ようと心(思索)に集中し、意識を集中統一する。
心(思索)の想像に対して意識を集中統一し、想像し続ける。
心(思索)に集中統一して得られた心の静止状態は、心三摩地という。
4.観如意足(観神足)
すぐれた瞑想を得ようと、深められた洞察力をもって観察に集中し、意識を集中統一する。
思惟観察や自覚に対して意識を集中統一し、観察自覚し続ける。
観(観察力・自覚)に集中統一して得られた心の静止状態は、観三摩地という。
ブッダの解脱への修行では、一部のヨーガ修行にあるようなクンダリニーやチャクラの開発のようなことは説いていない。クンダリニーやチャクラが関連を持つことはあっても、直接的な対応関係といえるものはない。クンダリニーやチャクラの修行は、誰にでも勧められる一般的な修行ではないからと思われる。
四如意足だけで解脱ができるというわけでもない。宇宙と一体となったと感じるサマーディ(三昧)状態が、仏教の目指すニルヴァーナと同じではないからである。禅定だけでニルヴァーナへ至れるのならば、そのようにブッダは説いたはずである。禅定だけではニルヴァーナは難しいのである。
しかし禅定(意識を集中統一する瞑想)は、修行者の誰にでも必要である。これにより普段は意識していないような、潜在意識の深いところまで作用を及ぼすことができるようになる。
意識を集中統一する瞑想を行っていると、ある意味不思議な現象を引き起こす力を得ることがある。これを神通と呼ぶこともできるが、この力が得られたからといってニルヴァーナに到達したわけではない。この力で何でも好きなことができるわけでもないが、禅定が深まったことの証の一つにはなる。ヨーガや神仙道の熟達者が、不思議な現象を引き起こすのも、同じ現象である。
上座部仏教(南伝仏教)のサマタ瞑想は、禅定、つまり「定」であり、意識を集中する修行であり、四如意足(四神足)の実践ともいえる。
四如意足を正しく教えている日本の仏教教団は存在しないように思われる。各自で工夫するか、上座部仏教のサマタ瞑想を学ぶべきかもしれない。
天台止観などの「止観」の「止」(集中する瞑想)も、もともとはこれからきている禅定(瞑想法)である。禅宗の座禅、天台宗の止観、真言宗の観相や儀式次第なども関係性は深いので修行の上での参考となる。
四如意足に習熟すれば、四念処もより深く実行できるようになる。個別の基本修行科目にも、相互に関連する作用が存在するのである。
「定」は、禅定のことであるが、色界の四つの禅定、無色界の四つの禅定があり、これを達成するために四如意足が意識される。
四如意足は、特に無色界の禅定の達成に関係が深いといえるので、無色界の禅定を達成するために使われる。
注)
三摩地(さんまじ)、三昧(さんまい)は、どちらもヨーガなどの瞑想状態を表すサマーディの訳語である。漢訳された仏教経典でサマーディの訳語として、サマーディの音を漢字で音写した用語である三摩地や三昧という言葉が用いられた。
これから派生して、物事に耽溺し耽ることを表すのに「何々三昧」という言い方が生じた。
2011年5月18日水曜日
四念処(四念住)[基本修行科目(2)]
基本修行科目の2番目は、四念処(四念住)である。四念処とも、四念住とも呼ばれる。
総合修行科目のうち、「念」と訳されたものが、四念処のことである。
五根五力の「念根・念力」、七覚支の「念覚支」、八正道の「正念」が、四念処(四念住)のことを指す。
四念処(四念住)は次のものであり、観察する瞑想である。
1.身念処(身念住)
わが身は不浄であると観察する。身体におけるすべて(息、行、住、座、臥、身体・行動のすべて)が不浄であることを観察する。
息(出息、入息、止息)、全身、身体を観察する。
私は長く息を吐いている、私は長く息を吸っている、私は短く息を吐いている、私は短く息を吸っている、私は全身を感知して息を吐いている、私は全身を感知して息を吸っている、私の身体について生起する性質、私の身体について衰滅する性質、私の交互に生起し衰滅する性質、これら身体について観察する。
2.受念処(受念住)
感受は苦であると観察する。一切の感受作用(外部の感受作用、内部の感受作用)は、苦しみにつながることを観察する。
快楽、苦痛、不苦不楽について、感じている実感を観察する。
私は快楽を感じている、私は苦痛を感じている、私は不苦不楽を感じている、これら感受作用について観察する。
3.心念処(心念住)
心は無常であると観察する。心は常にいろいろなこと考え、一瞬たりとも止まることなく変化し続けていることを観察する。
心の状態(感情想念、貪欲、瞋恚、愚痴)を観察する。
・貪欲(どんよく)とは、執着、欲張り、貪り、等である。
・瞋恚(しんに)とは、怒り、憎しみ、恨み、等である。
・愚痴(ぐち)とは、妄想、怠け、無自覚、等である。
私は心が執着している、私は心が欲張っている、私は心に怒りがある、私は心に妄想がある、私は心に想念がある、これら心の状態について観察する。
4.法念処(法念住)
諸法は無我であると観察する。諸々の法(この世のすべてのものごと)には、本質的な主体(我)というものは存在しないことを観察する。
意識の対象(考え、想像)を観察する。
私は真理について考えている、私は真理に基づいて考えている、私は煩悩について考えている、私は煩悩に基づいて考えている、私は真理に基づいて想像している、私は煩悩に基づいて想像している、これら意識の対象について観察する。
ここでいう「念」とは「念ずる」とか「念力」を意味するのではなく、「気づくこと」、「観察すること」を表し、観察する瞑想のことである。仏道、仏様を単に念じるというような意味ではない。
「念」とは、もともと「サチ」が原語であり、四念処観を行うということである。「サチ」は、通常は気づきと訳される言葉である。
八正道の「正念」の説明として、「雑念を去り、仏を一心に念ずる」などという説明を読んだことがある。「雑念を去り」という部分は禅定につながりはするが、単なる一般的な心得以上にも思えない。「仏を一心に念ずる」では、一生懸命に仏様におすがりするような行動のようにも思える。この説明では「正念」とは、どのような修行内容なのか、内容があまりよく分らないだけでなく、「正念」の指す本来の意味を取り違えていると言わざるをえない。「正念」の本質である、四念処を行うということが理解されていないのである。ここでいう「正念」とは、仏様を「念じる」というような意味ではなく、四念処を行うことを指しているのである。
現在、日本でも広く知られるようになった、上座部仏教(南伝仏教)のヴィパッサナー瞑想(気づきの瞑想)は、四念処観の修行からきているものである。
四念処の瞑想を正しく教えている日本の仏教教団は存在しないように思われる。四念処については、上座部仏教の修行の一環であるヴィパッサナー瞑想から入るほうが体得しやすいかも知れない。
天台止観などの「止観」の「観」(観察する瞑想)も、もともとはこれからきている観法(瞑想法)である。禅宗の座禅、天台宗の止観、真言宗の観相や諸種の儀式次第なども、四念処との関係性は深いので修行の上での参考とできる。
四念処を正しく行うためには、色界の禅定である初禅(第一禅)には、到達している必要がある。
しかし四念処を行う中で、初禅(第一禅)には、自動的に到達するのである。
そいうことから四念処により、色界の禅定に達成することができ、色界の禅定との関係が深いといえる。
総合修行科目のうち、「念」と訳されたものが、四念処のことである。
五根五力の「念根・念力」、七覚支の「念覚支」、八正道の「正念」が、四念処(四念住)のことを指す。
四念処(四念住)は次のものであり、観察する瞑想である。
1.身念処(身念住)
わが身は不浄であると観察する。身体におけるすべて(息、行、住、座、臥、身体・行動のすべて)が不浄であることを観察する。
息(出息、入息、止息)、全身、身体を観察する。
私は長く息を吐いている、私は長く息を吸っている、私は短く息を吐いている、私は短く息を吸っている、私は全身を感知して息を吐いている、私は全身を感知して息を吸っている、私の身体について生起する性質、私の身体について衰滅する性質、私の交互に生起し衰滅する性質、これら身体について観察する。
2.受念処(受念住)
感受は苦であると観察する。一切の感受作用(外部の感受作用、内部の感受作用)は、苦しみにつながることを観察する。
快楽、苦痛、不苦不楽について、感じている実感を観察する。
私は快楽を感じている、私は苦痛を感じている、私は不苦不楽を感じている、これら感受作用について観察する。
3.心念処(心念住)
心は無常であると観察する。心は常にいろいろなこと考え、一瞬たりとも止まることなく変化し続けていることを観察する。
心の状態(感情想念、貪欲、瞋恚、愚痴)を観察する。
・貪欲(どんよく)とは、執着、欲張り、貪り、等である。
・瞋恚(しんに)とは、怒り、憎しみ、恨み、等である。
・愚痴(ぐち)とは、妄想、怠け、無自覚、等である。
私は心が執着している、私は心が欲張っている、私は心に怒りがある、私は心に妄想がある、私は心に想念がある、これら心の状態について観察する。
4.法念処(法念住)
諸法は無我であると観察する。諸々の法(この世のすべてのものごと)には、本質的な主体(我)というものは存在しないことを観察する。
意識の対象(考え、想像)を観察する。
私は真理について考えている、私は真理に基づいて考えている、私は煩悩について考えている、私は煩悩に基づいて考えている、私は真理に基づいて想像している、私は煩悩に基づいて想像している、これら意識の対象について観察する。
ここでいう「念」とは「念ずる」とか「念力」を意味するのではなく、「気づくこと」、「観察すること」を表し、観察する瞑想のことである。仏道、仏様を単に念じるというような意味ではない。
「念」とは、もともと「サチ」が原語であり、四念処観を行うということである。「サチ」は、通常は気づきと訳される言葉である。
八正道の「正念」の説明として、「雑念を去り、仏を一心に念ずる」などという説明を読んだことがある。「雑念を去り」という部分は禅定につながりはするが、単なる一般的な心得以上にも思えない。「仏を一心に念ずる」では、一生懸命に仏様におすがりするような行動のようにも思える。この説明では「正念」とは、どのような修行内容なのか、内容があまりよく分らないだけでなく、「正念」の指す本来の意味を取り違えていると言わざるをえない。「正念」の本質である、四念処を行うということが理解されていないのである。ここでいう「正念」とは、仏様を「念じる」というような意味ではなく、四念処を行うことを指しているのである。
現在、日本でも広く知られるようになった、上座部仏教(南伝仏教)のヴィパッサナー瞑想(気づきの瞑想)は、四念処観の修行からきているものである。
四念処の瞑想を正しく教えている日本の仏教教団は存在しないように思われる。四念処については、上座部仏教の修行の一環であるヴィパッサナー瞑想から入るほうが体得しやすいかも知れない。
天台止観などの「止観」の「観」(観察する瞑想)も、もともとはこれからきている観法(瞑想法)である。禅宗の座禅、天台宗の止観、真言宗の観相や諸種の儀式次第なども、四念処との関係性は深いので修行の上での参考とできる。
四念処を正しく行うためには、色界の禅定である初禅(第一禅)には、到達している必要がある。
しかし四念処を行う中で、初禅(第一禅)には、自動的に到達するのである。
そいうことから四念処により、色界の禅定に達成することができ、色界の禅定との関係が深いといえる。
2011年5月17日火曜日
四正断(四正勤)[基本修行科目(1)]
基本修行科目の1番目は、四正断(四正勤)である。四正断とも、四正勤とも呼ばれる。
総合修行科目のうち、「精進」と訳されたものが、四正断のことである。
五根五力の「精進根・精進力」、七覚支の「精進覚支」、八正道の「正精進」が、四正断(四正勤)のことを指す。
四正断(四正勤)は次のものであり、日々の日常で努力すべき実践的な行動である。
1.断断
いまだ生じていない悪を生じさせないように努力する。
新しい悪業が生じないように、意志を起し、努力し、精励し、心をはげまして立ち向かう。
新たな悪業はなさないと決意して、それを熱心に注意深く実行していく。
2.律儀断
すでに生じた悪を断滅するように努力する。
すでにある悪業を断滅するように、意志を起し、努力し、精励し、心をはげまして立ち向かう。
すでに生じている悪業を無くそうと決意して、それを熱心に注意深く実行して行く。
3.随護断
いまだ生じていない善を生じさせるように努力する。
新しい善業が生じるように、意志を起し、努力し、精励し、心をはげまして立ち向かう。
新たな善業をなそうと決意して、それを熱心に注意深く実行して行く。
4.修断
すでに生じた善を増長させるように努力する。
すでにある善業を安定させ、持続させるように、意志を起し、努力し、精励し、心をはげまして立ち向かう。
すでに生じている善業を定着させようと決意して、それを熱心に注意深く実行して行く。
ここでいう「精進」とは、通常の「精進する」(努力する)というような意味だけではなく、四正断を意識して行動するという意味になる。四正断は、具体的な実践的行動であり、やみくもに仏道に精進する(努力する、頑張る)という抽象的な意味ではない。
四正断の内容をみると、呼吸法でも瞑想法でもなく、修行というより倫理道徳のような教えのようにも思われるであろう。いかにも修行らしく思えるような修行ではない四正断の内容をみて、これは大した内容ではないと、あなどる人もいるのではないだろうか。ただの教えか、というわけである。
しかしよく考えてみれば、本当に分りきったことなのであろうか。また分りきったことと思っても、ここにある内容が本当に実践できる人がどれだけいるであろうか。
四正断は、一人だけでできるような修行ではない。日常生活の人とのかかわりの中で、はじめて実践することが可能である。四正断の実践を意識して行おうとすると、実際にはどれだけ大変かがよく分るはずである。
確かに四正断だけでは、ニルヴァーナまでは至れないかもしれない。しかし、四正断を実行することで、天上界へ生まれる因を作ることができる。四正断を実行することのできる人は、少なくとも天の世界に生まれ変わることができる。四正断により、善を増大させ修行環境を調え、修行がしやすくなっていく。
四正断では、善業を増大させ、悪業を減少させることを目指している。ここで何が善であり、何が悪であるかということがある。解脱という視点から考えると、解脱を助けるものが善であり、解脱を妨げるものが悪である。心を平安にし、執着(煩悩、結)を減少させる事柄が善であり、心の平安を乱し、執着(煩悩、結)を増大させる事柄が悪といえる。これをさらに詳細に分析すると、日常生活の規定である戒となっていくのである。
四正断の実践を滞りなく行えるように、という考えから「戒」が生まれたのである。戒律というと、人を縛り付けるもののように捉えがちであるが、修行者が解脱へ至るために、日々の日常生活が調えられるように考えられたものでもある。出家修行者、在家修行者のどちらにとっても、日常生活、それ自体を調えて四正断に沿うように、意識的に生活するために戒律が生まれたのである。
日々の日常生活で、常に戒を意識していれば、必然的に四正断の実践に結びつくからである。
常に日常生活で意識していなければ、四正断は実行できるものではない。時たま、気が向いたときに思い出すという程度では、四正断の実践とはとても言うことはできない。思い出す程度では修行ではなく、単なる普通人の心構えという以上のものではない。
別の修行科目である四念処に熟達すれば、日常生活の中で、自分の行う行動、心の中に沸き起こる気持ちや考えに、常に注意を払うことができるようになり、より深い意味で四正断を実行することが可能となる。自分の行動のすべてを意識的に行うことができるようになるのである。
また逆に、常に四正断を意識していれば、それは四念処を深めることにもつながっていく。個別の基本修行科目にも、相互に関連する作用が存在するのである。
四正断の実行というからには、日常生活で、常にこの内容を意識していることが求められるのである。四正断(戒を含む)を実践していない仏道実践者は、いないはずである。
ちなみに四正断(四正勤)とは、4つのするべきでないこと、するべきこと(断ずべきこと、勤めるべきこと)という意味からである。
総合修行科目のうち、「精進」と訳されたものが、四正断のことである。
五根五力の「精進根・精進力」、七覚支の「精進覚支」、八正道の「正精進」が、四正断(四正勤)のことを指す。
四正断(四正勤)は次のものであり、日々の日常で努力すべき実践的な行動である。
1.断断
いまだ生じていない悪を生じさせないように努力する。
新しい悪業が生じないように、意志を起し、努力し、精励し、心をはげまして立ち向かう。
新たな悪業はなさないと決意して、それを熱心に注意深く実行していく。
2.律儀断
すでに生じた悪を断滅するように努力する。
すでにある悪業を断滅するように、意志を起し、努力し、精励し、心をはげまして立ち向かう。
すでに生じている悪業を無くそうと決意して、それを熱心に注意深く実行して行く。
3.随護断
いまだ生じていない善を生じさせるように努力する。
新しい善業が生じるように、意志を起し、努力し、精励し、心をはげまして立ち向かう。
新たな善業をなそうと決意して、それを熱心に注意深く実行して行く。
4.修断
すでに生じた善を増長させるように努力する。
すでにある善業を安定させ、持続させるように、意志を起し、努力し、精励し、心をはげまして立ち向かう。
すでに生じている善業を定着させようと決意して、それを熱心に注意深く実行して行く。
ここでいう「精進」とは、通常の「精進する」(努力する)というような意味だけではなく、四正断を意識して行動するという意味になる。四正断は、具体的な実践的行動であり、やみくもに仏道に精進する(努力する、頑張る)という抽象的な意味ではない。
四正断の内容をみると、呼吸法でも瞑想法でもなく、修行というより倫理道徳のような教えのようにも思われるであろう。いかにも修行らしく思えるような修行ではない四正断の内容をみて、これは大した内容ではないと、あなどる人もいるのではないだろうか。ただの教えか、というわけである。
しかしよく考えてみれば、本当に分りきったことなのであろうか。また分りきったことと思っても、ここにある内容が本当に実践できる人がどれだけいるであろうか。
四正断は、一人だけでできるような修行ではない。日常生活の人とのかかわりの中で、はじめて実践することが可能である。四正断の実践を意識して行おうとすると、実際にはどれだけ大変かがよく分るはずである。
確かに四正断だけでは、ニルヴァーナまでは至れないかもしれない。しかし、四正断を実行することで、天上界へ生まれる因を作ることができる。四正断を実行することのできる人は、少なくとも天の世界に生まれ変わることができる。四正断により、善を増大させ修行環境を調え、修行がしやすくなっていく。
四正断では、善業を増大させ、悪業を減少させることを目指している。ここで何が善であり、何が悪であるかということがある。解脱という視点から考えると、解脱を助けるものが善であり、解脱を妨げるものが悪である。心を平安にし、執着(煩悩、結)を減少させる事柄が善であり、心の平安を乱し、執着(煩悩、結)を増大させる事柄が悪といえる。これをさらに詳細に分析すると、日常生活の規定である戒となっていくのである。
四正断の実践を滞りなく行えるように、という考えから「戒」が生まれたのである。戒律というと、人を縛り付けるもののように捉えがちであるが、修行者が解脱へ至るために、日々の日常生活が調えられるように考えられたものでもある。出家修行者、在家修行者のどちらにとっても、日常生活、それ自体を調えて四正断に沿うように、意識的に生活するために戒律が生まれたのである。
日々の日常生活で、常に戒を意識していれば、必然的に四正断の実践に結びつくからである。
常に日常生活で意識していなければ、四正断は実行できるものではない。時たま、気が向いたときに思い出すという程度では、四正断の実践とはとても言うことはできない。思い出す程度では修行ではなく、単なる普通人の心構えという以上のものではない。
別の修行科目である四念処に熟達すれば、日常生活の中で、自分の行う行動、心の中に沸き起こる気持ちや考えに、常に注意を払うことができるようになり、より深い意味で四正断を実行することが可能となる。自分の行動のすべてを意識的に行うことができるようになるのである。
また逆に、常に四正断を意識していれば、それは四念処を深めることにもつながっていく。個別の基本修行科目にも、相互に関連する作用が存在するのである。
四正断の実行というからには、日常生活で、常にこの内容を意識していることが求められるのである。四正断(戒を含む)を実践していない仏道実践者は、いないはずである。
ちなみに四正断(四正勤)とは、4つのするべきでないこと、するべきこと(断ずべきこと、勤めるべきこと)という意味からである。
2011年5月16日月曜日
基本修行科目
修行体系のうち、基本修行科目の各々について詳しくみていくことにしよう。
各基本修行科目の科目は、他の修行科目の内容とは重複していない。これら基本修行科目は、単独でもそれなりの効果はあるが、他の修行科目と組み合わせて実践させるようになっている。
こういうことから、各基本修行科目はニルヴァーナへと至る道においては、必ず実践が求められたものと思われる。
基本修行科目には、次の3つの修行科目がある。
○基本修行科目
1.四正断(四正勤)
2.四念処(四念住)
3.四如意足(四神足)
各基本修行科目の科目は、他の修行科目の内容とは重複していない。これら基本修行科目は、単独でもそれなりの効果はあるが、他の修行科目と組み合わせて実践させるようになっている。
こういうことから、各基本修行科目はニルヴァーナへと至る道においては、必ず実践が求められたものと思われる。
基本修行科目には、次の3つの修行科目がある。
○基本修行科目
1.四正断(四正勤)
2.四念処(四念住)
3.四如意足(四神足)
2011年5月15日日曜日
総合修行科目[仏教の修行体系(4)]
基本的な修行科目をまとめて、網羅するようにした総合的な修行科目である。
阿含経にある総合修行科目は、五根、五力、七覚支、八正道である。
内容を仔細にみると各総合修行科目には、基本修行科目としての、四正断、四念処、四如意足が含まれている。
1.五根と五力
五根は、次の五つの修行科目である。
① 信根
② 精進根(四正断の根)
③ 念根(四念処の根)
④ 定根(四如意足の根)
⑤ 慧根
五力は、次の五つの修行科目である。
① 信力
② 精進力(四正断の力)
③ 念力(四念処の力)
④ 定力(四如意足の力)
⑤ 慧力
五根と五力は、末尾に付く「根」と「力」が違うだけで、まったく同じ修行科目を指している。五根と五力は、非常に関係性が深いので、ここでは一体の修行科目として扱う。
つまり五根と五力は、まとめると次の五つの修行科目である。
① 信根・信力
② 精進根・精進力(四正断の根と力)
③ 念根・念力(四念処の根と力)
④ 定根・定力(四如意足の根と力)
⑤ 慧根・慧力
2.七覚支
七覚支は、次の七つの修行科目である。
① 念覚支(四念処の覚支)
② 択法覚支
③ 精進覚支(四正断の覚支)
④ 喜覚支
⑤ 軽安覚支
⑥ 定覚支(四如意足の覚支)
⑦ 捨覚支
3.八正道
八正道は、次の八つの修行科目である。
① 正見
② 正思惟
③ 正語
④ 正業
⑤ 正命
⑥ 正精進(正しい四正断)
⑦ 正念(正しい四念処)
⑧ 正定(正しい四如意足)
このように、五根と五力、七覚支、八正道は、内容的にそれぞれ重複したところがあり、そのどれかを修行すればよいようになっている。ブッダは修行者の気質をみて、五根と五力、七覚支、八正道のどれかに取り組まさせたものであろう。
修行者の必要性にあわせて、四正断、四念処、四如意足については、個別に詳しく説明したものであると思われるのである。
つまりは、五根と五力、七覚支、八正道のどれかを修行すれば、七科三十七道品の大切な基本修行科目はすべて含まれているのである。
次からは、3つの基本修行科目と、3つ(五根と五力を分ければ4つ)の総合修行科目の各々について、個別に詳しくみていくことにしよう。
阿含経にある総合修行科目は、五根、五力、七覚支、八正道である。
内容を仔細にみると各総合修行科目には、基本修行科目としての、四正断、四念処、四如意足が含まれている。
1.五根と五力
五根は、次の五つの修行科目である。
① 信根
② 精進根(四正断の根)
③ 念根(四念処の根)
④ 定根(四如意足の根)
⑤ 慧根
五力は、次の五つの修行科目である。
① 信力
② 精進力(四正断の力)
③ 念力(四念処の力)
④ 定力(四如意足の力)
⑤ 慧力
五根と五力は、末尾に付く「根」と「力」が違うだけで、まったく同じ修行科目を指している。五根と五力は、非常に関係性が深いので、ここでは一体の修行科目として扱う。
つまり五根と五力は、まとめると次の五つの修行科目である。
① 信根・信力
② 精進根・精進力(四正断の根と力)
③ 念根・念力(四念処の根と力)
④ 定根・定力(四如意足の根と力)
⑤ 慧根・慧力
2.七覚支
七覚支は、次の七つの修行科目である。
① 念覚支(四念処の覚支)
② 択法覚支
③ 精進覚支(四正断の覚支)
④ 喜覚支
⑤ 軽安覚支
⑥ 定覚支(四如意足の覚支)
⑦ 捨覚支
3.八正道
八正道は、次の八つの修行科目である。
① 正見
② 正思惟
③ 正語
④ 正業
⑤ 正命
⑥ 正精進(正しい四正断)
⑦ 正念(正しい四念処)
⑧ 正定(正しい四如意足)
このように、五根と五力、七覚支、八正道は、内容的にそれぞれ重複したところがあり、そのどれかを修行すればよいようになっている。ブッダは修行者の気質をみて、五根と五力、七覚支、八正道のどれかに取り組まさせたものであろう。
修行者の必要性にあわせて、四正断、四念処、四如意足については、個別に詳しく説明したものであると思われるのである。
つまりは、五根と五力、七覚支、八正道のどれかを修行すれば、七科三十七道品の大切な基本修行科目はすべて含まれているのである。
次からは、3つの基本修行科目と、3つ(五根と五力を分ければ4つ)の総合修行科目の各々について、個別に詳しくみていくことにしよう。
2011年5月14日土曜日
基本修行科目[仏教の修行体系(3)]
総合修行科目に含まれる、基本的に大切な修行科目である。
阿含経にある基本修行科目は、四正断、四念処、四如意足である。
1.四正断(四正勤)
四正断(四正勤)は、次の四つの修行科目である。
① 断断
② 律儀断
③ 随護断
④ 修断
総合修行科目のうち、「精進」と訳されたものが、四正断のことを指している。これを理解していると、総合修行科目の内容が、より正確に理解できるようになる。
五根と五力の「精進根・精進力」、七覚支の「精進覚支」、八正道の「正精進」が、このことを指す。
四正断は「仏道に精進する、努力する」というような、あいまいな抽象的な内容ではない。
2.四念処(四念住)
四念処(四念住)は、次の四つの修行科目である。
① 身念処(身念住)
② 受念処(受念住)
③ 心念処(心念住)
④ 法念処(法念住)
総合修行科目のうち、「念」と訳されたものが、四念処のことを指している。これを理解していると、総合修行科目の内容が、より正確に理解できるようになる。
五根と五力の「念根・念力」、七覚支の「念覚支」、八正道の「正念」が、このことを指す。
四念処は、色界の四つの禅定(四禅)に関係が深い。
四念処は「心に仏を一心に念ずる」というような、何のことだか意味のよく分らない内容ではない。
3.四如意足(四神足)
四如意足(四神足)は、次の四つの修行科目である。
① 欲如意足(欲神足)
② 精進如意足(精進神足)
③ 心如意足(心神足)
④ 観如意足(観神足)
総合修行科目のうち、「定」と訳されたものが、四如意足のことを指している。これを理解していると、総合修行科目の内容が、より正確に理解できるようになる。
五根と五力の「定根・定力」、七覚支の「定覚支」、八正道の「正定」が、このことを指す。
定とは、禅定のことであるが、色界の四つの禅定(四禅)、無色界の四つの禅定がある。
ただ、定はすべて四如意足のことかというとはっきりとしない点もある。色界、無色界の禅定をただ指している場合もあるかもしれない。とはいえ、ここでは定は、主に四如意足のことを指していると考えて説明しよう。
四如意足は、特に無色界の四つの禅定に関係が深い。これを達成するために四如意足が使われる。
定については、禅定のことと理解されているが、四如意足が意識されることは少ない。一般には座禅のようなものだけと思われている。
阿含経にある基本修行科目は、四正断、四念処、四如意足である。
1.四正断(四正勤)
四正断(四正勤)は、次の四つの修行科目である。
① 断断
② 律儀断
③ 随護断
④ 修断
総合修行科目のうち、「精進」と訳されたものが、四正断のことを指している。これを理解していると、総合修行科目の内容が、より正確に理解できるようになる。
五根と五力の「精進根・精進力」、七覚支の「精進覚支」、八正道の「正精進」が、このことを指す。
四正断は「仏道に精進する、努力する」というような、あいまいな抽象的な内容ではない。
2.四念処(四念住)
四念処(四念住)は、次の四つの修行科目である。
① 身念処(身念住)
② 受念処(受念住)
③ 心念処(心念住)
④ 法念処(法念住)
総合修行科目のうち、「念」と訳されたものが、四念処のことを指している。これを理解していると、総合修行科目の内容が、より正確に理解できるようになる。
五根と五力の「念根・念力」、七覚支の「念覚支」、八正道の「正念」が、このことを指す。
四念処は、色界の四つの禅定(四禅)に関係が深い。
四念処は「心に仏を一心に念ずる」というような、何のことだか意味のよく分らない内容ではない。
3.四如意足(四神足)
四如意足(四神足)は、次の四つの修行科目である。
① 欲如意足(欲神足)
② 精進如意足(精進神足)
③ 心如意足(心神足)
④ 観如意足(観神足)
総合修行科目のうち、「定」と訳されたものが、四如意足のことを指している。これを理解していると、総合修行科目の内容が、より正確に理解できるようになる。
五根と五力の「定根・定力」、七覚支の「定覚支」、八正道の「正定」が、このことを指す。
定とは、禅定のことであるが、色界の四つの禅定(四禅)、無色界の四つの禅定がある。
ただ、定はすべて四如意足のことかというとはっきりとしない点もある。色界、無色界の禅定をただ指している場合もあるかもしれない。とはいえ、ここでは定は、主に四如意足のことを指していると考えて説明しよう。
四如意足は、特に無色界の四つの禅定に関係が深い。これを達成するために四如意足が使われる。
定については、禅定のことと理解されているが、四如意足が意識されることは少ない。一般には座禅のようなものだけと思われている。
2011年5月13日金曜日
修行体系の分類(基本修行科目と総合修行科目)[仏教の修行体系(2)]
仏教の基礎知識の説明は終わったので、修行体系である七科三十七道品の内容を詳しく分析してみることにしよう。
七科三十七道品の七科(七課)の修行科目を仔細にみてみると、七科は内容的に2つの種類に分けることができる。
七科の修行科目のうち、3つは基本的な修行科目であり、残りの4つはその基本的な修行科目を含んだ総合的な修行科目となっていることに気がつく。
総合的修行科目に、基本的修行科目は包含されていることになるのである。
1.基本修行科目
総合修行科目に含まれる、個別の基本的な修行科目である。
基本修行科目、単独の修行でも、もちろん効果はあるが、通常は他の基本修行科目と組み合わせて取り組む修行科目である。
これには、次の3つの修行科目がある。
① 四正断(四正勤)
② 四念処(四念住)
③ 四如意足(四神足)
2.総合修行科目
基本修行科目を含む、網羅的、総合的な修行科目である。
総合修行科目のいずれかに取り組めば、基本修行科目のすべてを含んでいることになる。そういうことから解脱のためには、総合修行科目のどれかを選んで実行させたものと思われる。
これには、次の3つ(五根と五力を分ければ4つ)の修行科目がある。
① 五根と五力
(五根と五力は別々の修行科目というより、密接な関係性があるので、ここでは一体の修行科目として扱う)
② 七覚支
③ 八正道
七科三十七道品の七科(七課)の修行科目を仔細にみてみると、七科は内容的に2つの種類に分けることができる。
七科の修行科目のうち、3つは基本的な修行科目であり、残りの4つはその基本的な修行科目を含んだ総合的な修行科目となっていることに気がつく。
総合的修行科目に、基本的修行科目は包含されていることになるのである。
1.基本修行科目
総合修行科目に含まれる、個別の基本的な修行科目である。
基本修行科目、単独の修行でも、もちろん効果はあるが、通常は他の基本修行科目と組み合わせて取り組む修行科目である。
これには、次の3つの修行科目がある。
① 四正断(四正勤)
② 四念処(四念住)
③ 四如意足(四神足)
2.総合修行科目
基本修行科目を含む、網羅的、総合的な修行科目である。
総合修行科目のいずれかに取り組めば、基本修行科目のすべてを含んでいることになる。そういうことから解脱のためには、総合修行科目のどれかを選んで実行させたものと思われる。
これには、次の3つ(五根と五力を分ければ4つ)の修行科目がある。
① 五根と五力
(五根と五力は別々の修行科目というより、密接な関係性があるので、ここでは一体の修行科目として扱う)
② 七覚支
③ 八正道
2011年5月12日木曜日
七科三十七道品(阿含経の修行体系)[仏教の修行体系(1)]
唯一の原始仏典である阿含経に説かれている修行体系は、七科三十七道品と呼ばれている。
三十七道品とは、ニルヴァーナに至るための、つまりは解脱するための、三十七種類の修行方法のことである。
三十七種類の修行方法とは、四正断、四念処、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道の七科(七種類)に分かれるので、七科三十七道品とも、単に三十七菩提分法ともいう。
七科(七種類)の修行方法のすべてを合計すると、三十七種類の修行方法となるので、三十七道品、三十七菩提分法と呼ぶのである。
しかしながら七科三十七道品は、内容的には重複するものがあり、三十七種類すべての修行科目に取り組む必要があるわけではない。
○七科三十七道品(三十七菩提分法)
① 四正断(四正勤)
② 四念処(四念住)
③ 四如意足(四神足)
④ 五根
⑤ 五力
⑥ 七覚支
⑦ 八正道
これが阿含経に説かれているニルヴァーナへと到る、解脱のための修行体系である。
ブッダが説いた思想、世界観には、縁起の法、四諦の法門、十二因縁などがあるが、ブッダが説いた修行体系としては、これしかないのである。
日本においては、一般に仏道という。仏道というと、何か仏教の修行というか、ブッダへの道があるように思えるが、実際には何が仏道なのか、何をすることが仏道と呼べるのか、僧侶にとってさえ、よく分らないのが実情ではないだろうか。そいう意味では日本で仏道は、仏教の失われた道となって久しい。
もし仏道と呼べるものがあるとするなら、ニルヴァーナへと到る七科三十七道品、これしかないはずである。仏教に説かれている他の事柄は、思想であり概念に過ぎない。それらの思想なり、概念なりを知り理解したところで、ニルヴァーナへと至り最終的な解脱が果たせるわけではないのである。思想や概念で解脱できるなら、仏教の文献学者なら解脱できるはずである。しかし学者では、ニルヴァーナへと至る解脱は果たせない。
仏教の失われた道があるとすれば、それは、この七科三十七道品の修行体系の中にしかないのである。
次に阿含経の修行体系を、基本修行科目と総合修行科目に分類したうえで、その各々について考察してみよう。
三十七道品とは、ニルヴァーナに至るための、つまりは解脱するための、三十七種類の修行方法のことである。
三十七種類の修行方法とは、四正断、四念処、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道の七科(七種類)に分かれるので、七科三十七道品とも、単に三十七菩提分法ともいう。
七科(七種類)の修行方法のすべてを合計すると、三十七種類の修行方法となるので、三十七道品、三十七菩提分法と呼ぶのである。
しかしながら七科三十七道品は、内容的には重複するものがあり、三十七種類すべての修行科目に取り組む必要があるわけではない。
○七科三十七道品(三十七菩提分法)
① 四正断(四正勤)
② 四念処(四念住)
③ 四如意足(四神足)
④ 五根
⑤ 五力
⑥ 七覚支
⑦ 八正道
これが阿含経に説かれているニルヴァーナへと到る、解脱のための修行体系である。
ブッダが説いた思想、世界観には、縁起の法、四諦の法門、十二因縁などがあるが、ブッダが説いた修行体系としては、これしかないのである。
日本においては、一般に仏道という。仏道というと、何か仏教の修行というか、ブッダへの道があるように思えるが、実際には何が仏道なのか、何をすることが仏道と呼べるのか、僧侶にとってさえ、よく分らないのが実情ではないだろうか。そいう意味では日本で仏道は、仏教の失われた道となって久しい。
もし仏道と呼べるものがあるとするなら、ニルヴァーナへと到る七科三十七道品、これしかないはずである。仏教に説かれている他の事柄は、思想であり概念に過ぎない。それらの思想なり、概念なりを知り理解したところで、ニルヴァーナへと至り最終的な解脱が果たせるわけではないのである。思想や概念で解脱できるなら、仏教の文献学者なら解脱できるはずである。しかし学者では、ニルヴァーナへと至る解脱は果たせない。
仏教の失われた道があるとすれば、それは、この七科三十七道品の修行体系の中にしかないのである。
次に阿含経の修行体系を、基本修行科目と総合修行科目に分類したうえで、その各々について考察してみよう。
2011年5月11日水曜日
仏教の修行体系(失われた道)
阿含経に説かれている修行体系は、ニルヴァーナへと至るための失われた道である。
日本の仏教では、ニルヴァーナへと至るための修行方法(道)が失われて久しい。いくら日本の仏教(伝統仏教から新興宗教の仏教まで)を一生懸命行ったところで、ニルヴァーナへと至ることはできないであろう。その途上にすら到達できないかもしれない。
ニルヴァーナへと至る失われた道(修行体系)とは、七科三十七道品と呼ばれるものであり、その各々の内容について分類し、解説していくことにしよう。
○仏教の修行体系
1.七科三十七道品(阿含経の修行体系)
2.修行体系の分類(基本修行科目と総合修行科目)
3.基本修行科目
4.総合修行科目
阿含経には、七科三十七道品の修行科目の名称や項目は出てくるが、詳しい内容までは述べられていない。経典に記述されているのは、七科三十七道品の簡単な内容説明だけである。そのため後世には、七科三十七道品の修行科目の内容があいまいとなり、具体的には何を指しているのか、どのようにすればよいのかが、よく分らなくなってしまった。そのため同じ八正道を指していても、さまざまな解釈が生まれる余地が生じてしまったのである。
七科三十七道品の具体的な内容については、仏教哲学(論蔵)であるアビダルマ論書の方にもう少し詳しい記述がある。
注)
仏教での三蔵とは、仏教文献全体を大きく三つに分類し、まとめたものを指している。「蔵」とは「くら」という意味で、仏教文献全体をまとめたカテゴリーである。三蔵とは、次のものを指す。
1.経蔵
ブッダの説いたとされる教えをまとめた文献。
2.律蔵
規則・道徳・生活様相(戒律)などをまとめた文献。
3.論蔵
経や律についての注釈や解釈などを集めた文献。
日本の仏教では、ニルヴァーナへと至るための修行方法(道)が失われて久しい。いくら日本の仏教(伝統仏教から新興宗教の仏教まで)を一生懸命行ったところで、ニルヴァーナへと至ることはできないであろう。その途上にすら到達できないかもしれない。
ニルヴァーナへと至る失われた道(修行体系)とは、七科三十七道品と呼ばれるものであり、その各々の内容について分類し、解説していくことにしよう。
○仏教の修行体系
1.七科三十七道品(阿含経の修行体系)
2.修行体系の分類(基本修行科目と総合修行科目)
3.基本修行科目
4.総合修行科目
阿含経には、七科三十七道品の修行科目の名称や項目は出てくるが、詳しい内容までは述べられていない。経典に記述されているのは、七科三十七道品の簡単な内容説明だけである。そのため後世には、七科三十七道品の修行科目の内容があいまいとなり、具体的には何を指しているのか、どのようにすればよいのかが、よく分らなくなってしまった。そのため同じ八正道を指していても、さまざまな解釈が生まれる余地が生じてしまったのである。
七科三十七道品の具体的な内容については、仏教哲学(論蔵)であるアビダルマ論書の方にもう少し詳しい記述がある。
注)
仏教での三蔵とは、仏教文献全体を大きく三つに分類し、まとめたものを指している。「蔵」とは「くら」という意味で、仏教文献全体をまとめたカテゴリーである。三蔵とは、次のものを指す。
1.経蔵
ブッダの説いたとされる教えをまとめた文献。
2.律蔵
規則・道徳・生活様相(戒律)などをまとめた文献。
3.論蔵
経や律についての注釈や解釈などを集めた文献。
2011年5月10日火曜日
阿含経(最初期の経典)[仏教の基礎知識(8)]
漢訳経典には、多くの仏教経典(経典群)が存在する。その経典群をまとめて、大蔵経とよんでいる。大蔵経とは、一つの経典のことではなく、仏教経典(経典群)すべてをまとめて指す言葉である。
大蔵経の仏教経典(経典群)のすべてが、歴史上のブッダの説いたことを伝えるものではない。大乗仏教での経典は、ずっと後世になってから、文筆家、理論家たちによって新たに創作された経典である。それらの創作された経典も、本文内で「われはこう聞いた」というような書き出しで始まっているので、今でもすべての経典を歴史上のブッダが説いたことだと誤解している人も多い。
大乗の教えは、ブッダの死後、約7百年後に龍樹(ナーガールジュナ)らによって、理論付けされたとされる。
○大乗仏教で創作された代表的な大乗仏教の経典
・般若経(一つの経典ではなく経典群である)
・華厳経
・法華経
・涅槃経(大乗仏教の涅槃経)
・浄土三部経
・密教系経典(大日経、金剛頂経等の経典群)
ここでは、最初期の仏教での基本的な修行体系は何であるのかを分析したいので、大乗仏教の経典群は基本的に考察の対象とはしない。
大蔵経の仏教経典(経典群)のすべてを読む必要はない。ブッダとなることを目指すなら、その目的に関係した経典だけを読めばよいのである。
最初期の仏教経典は、阿含経と呼ばれるもののみである。阿含経と呼ばれるものも、一つの経典(文献)ではなく、いくつもの経典を集めた経典群である。阿含経という経典群の中には、長い経典(文献)から、短い経典(文献)まで、多くの経典が含まれている。
○最初期の仏教経典
・阿含経(一つの経典ではなく経典群である)
阿含経とは、漢訳仏典中での名称であり、上座部仏教(南方仏教)には、阿含経に相当する仏典(南伝大蔵経)しか存在していない。上座部の南伝大蔵経は、すべてが漢訳の阿含経に相当した仏典のみということができる。大乗仏教の経典に相当する仏典は、上座部仏教(南方仏教)には存在しないのである。
最初期の仏典である阿含経をもとに、ブッダが説いた仏教の修行科目を考えてみたい。なぜなら、この修行科目こそが、ブッダが弟子たちを指導した内容であり、解脱(ニルヴァーナ)へと向かう道だからである。
ブッダは単に哲学的な思想体系を説いたのではない。ニルヴァーナへと向かう実践的な方法を説いたのである。そのためには、最初期の仏典である阿含経をもとに、どのような修行体系が説かれているかをみるしかないのである。
ここでは阿含経をもとに、ブッダが何を説いたのか、どのような方法で弟子たちを指導したのか、仏教で最も大切な、解脱するための方法とはどのような方法であるのか、を中心として考えてみたい。
つまり仏教の目的を達成するための方法とは何なのか、仏道とはどういうものなのか、を考察してみることにしたいと思う。
大蔵経の仏教経典(経典群)のすべてが、歴史上のブッダの説いたことを伝えるものではない。大乗仏教での経典は、ずっと後世になってから、文筆家、理論家たちによって新たに創作された経典である。それらの創作された経典も、本文内で「われはこう聞いた」というような書き出しで始まっているので、今でもすべての経典を歴史上のブッダが説いたことだと誤解している人も多い。
大乗の教えは、ブッダの死後、約7百年後に龍樹(ナーガールジュナ)らによって、理論付けされたとされる。
○大乗仏教で創作された代表的な大乗仏教の経典
・般若経(一つの経典ではなく経典群である)
・華厳経
・法華経
・涅槃経(大乗仏教の涅槃経)
・浄土三部経
・密教系経典(大日経、金剛頂経等の経典群)
ここでは、最初期の仏教での基本的な修行体系は何であるのかを分析したいので、大乗仏教の経典群は基本的に考察の対象とはしない。
大蔵経の仏教経典(経典群)のすべてを読む必要はない。ブッダとなることを目指すなら、その目的に関係した経典だけを読めばよいのである。
最初期の仏教経典は、阿含経と呼ばれるもののみである。阿含経と呼ばれるものも、一つの経典(文献)ではなく、いくつもの経典を集めた経典群である。阿含経という経典群の中には、長い経典(文献)から、短い経典(文献)まで、多くの経典が含まれている。
○最初期の仏教経典
・阿含経(一つの経典ではなく経典群である)
阿含経とは、漢訳仏典中での名称であり、上座部仏教(南方仏教)には、阿含経に相当する仏典(南伝大蔵経)しか存在していない。上座部の南伝大蔵経は、すべてが漢訳の阿含経に相当した仏典のみということができる。大乗仏教の経典に相当する仏典は、上座部仏教(南方仏教)には存在しないのである。
最初期の仏典である阿含経をもとに、ブッダが説いた仏教の修行科目を考えてみたい。なぜなら、この修行科目こそが、ブッダが弟子たちを指導した内容であり、解脱(ニルヴァーナ)へと向かう道だからである。
ブッダは単に哲学的な思想体系を説いたのではない。ニルヴァーナへと向かう実践的な方法を説いたのである。そのためには、最初期の仏典である阿含経をもとに、どのような修行体系が説かれているかをみるしかないのである。
ここでは阿含経をもとに、ブッダが何を説いたのか、どのような方法で弟子たちを指導したのか、仏教で最も大切な、解脱するための方法とはどのような方法であるのか、を中心として考えてみたい。
つまり仏教の目的を達成するための方法とは何なのか、仏道とはどういうものなのか、を考察してみることにしたいと思う。
2011年5月9日月曜日
五下分結と五上分結[仏教の基礎知識(7)]
五下分結(ごげぶんけつ)、五上分結(ごじょうぶんけつ)とは、三界(欲界、色界、無色界)に、衆生(人)を結びつける束縛のことである。五下分結と五上分結を合わせて、十結(じゅっけつ)という。
ここで「結」とは、束縛のことで、煩悩の異名でもある。ここでの煩悩の内容は、日常語として使われている煩悩とは、かなり意味合いが異なっている。日常語では、煩悩は欲望と同義語として扱われることが多いが、欲望では煩悩の中の欲貪(よくとん)のことだけを指している。もともとの仏教語としての煩悩は、欲望のことだけではなく、普通の意味では欲望とはいえない意味をも含むものである。
五下分結と五上分結は、四向四果(しこうしか、特に四果)の聖者の階梯と密接に関係している。
○五下分結
五下分結(ごげぶんけつ)は、五つの下位の束縛のことである。衆生(人)を俗界に結びつける五つの煩悩(結)である。
三界のうち下方の世界である欲界(感覚で知ることができる世界)に衆生(人)を結びつけ、束縛している五種の煩悩(結)のことであるので、五下分結と名づける。五下分結のあるかぎり、衆生(人)は欲界に生を受ける。
五下分結を完全に断滅すると、欲界には戻らない不還果(ふげんか)を得る。つまり五下分結を断滅すると、阿那含(アナゴン、不還)になる。
五下分結は、次の5つである。
1.身見(しんけん:有身見)
私という不変の存在があるという見解のことである。
私(私の身体、私という心身の集合体)など、とにかく私というものが変わらず存在すると思うことである。
無知に分類される、誤った見解・邪見である。
2.疑惑(ぎわく:疑)
何が真実か分からない状態のことである。
仏道の真実が分らない無知な状態といえる。
3.戒取(かいしゅ:戒禁取見)
こだわりに、とらわれることである。
しきたりや苦行など、いろいろなことにとらわれ、こだわることである。
4.欲貪(よくとん)
激しい欲のことである。
5.瞋恚(しんに)
激しい怒りのことである。
○三結
三結(さんけつ)は、五下分結のうち仏教修行で最初に消える、最初に断ずることのできる三つの煩悩(結)である。
三結を完全に断滅すると、預流果(よるか)を得る。つまり三結を断滅すると、須陀洹(シュダオン、預流)になる。
さらに三結を完全に断滅し、五下分結の残り二つ(欲貪、瞋恚)が薄くなると、一来果(いちらいか)を得る。つまり三結を断滅し、欲貪と瞋恚が薄くなると、斯陀含(シダゴン、一来)になる。
三結は、五下分結のうち、次の3つである。
1.身見
2.疑惑
3.戒取
○五上分結
五上分結(ごじょうぶんけつ)は、五つの上位の束縛のことである。衆生(人)を色界と無色界に結びつける、五つの煩悩(結)である。
三界のうち上方の世界である、色界と無色界に結びつけて、解脱させない煩悩のことであるから、五上分結と名づける。
五上分結を完全に断滅すると、応供果(おうぐか)を得る。つまり五上分結を断滅すると、阿羅漢(アラカン、応供)になる。
仏教修行の最終段階で断滅することのできる、精妙な五つの煩悩(結)のことである。
五上分結は、次の5つである。
1.色貪(しきとん)
色界に対する執着のことで、色界の禅定のすばらしさに対する執着である。
2.無色貪(むしきとん)
無色界に対する執着のことで、無色界の禅定のすばらしさに対する執着である。
3.掉挙(じょうこ)
私は到達した、というような心のたかぶりの感覚である。掉挙とはあまり使わない言葉であるが、心のたかぶりを指している。
私はこの段階まで達したというような達成感のような、心のたかぶりの感覚である。
欲界でも掉挙はあるが、ここでは色界、無色界のかすかで微妙な心のたかぶりである。
4.我慢(がまん、慢)
私がなした、というような慢心の感覚である。ここでは、慢心のことを我慢と呼んでいる。
欲界でも慢はあるが、ここでは色界、無色界のかすかで微妙な慢心である。
5.無明(むみょう)
どうしても最後まで、僅かに残っている根本の無知のことである。
○四果と十結(五下分結、五上分結)の関係
仏教での聖者の段階である四果(しか)と、十結(五下分結、五上分結)の関係をまとめておこう。
1.須陀洹(シュダオン、預流)
五下分結のうち、三結(身見、疑惑、戒取)を完全に断滅すると、預流果(よるか)を得る。
2.斯陀含(シダゴン、一来)
五下分結のうち、三結(身見、疑惑、戒取)を完全に断滅し、五下分結の残り二つ(欲貪、瞋恚)が薄くなると、一来果(いちらいか)を得る。
3.阿那含(アナゴン、不還)
五下分結(身見、疑惑、戒取、欲貪、瞋恚)を完全に断滅すると、不還果(ふげんか)を得る。
4.阿羅漢(アラカン、応供)
五下分結の断滅に加え、五上分結(色貪、無色貪、掉挙、我慢、無明)を完全に断滅すると、応供果(おうぐか)を得る。
阿羅漢(アラカン)へ至るために、五上分結を断滅することはかなり難しい。
ここで「結」とは、束縛のことで、煩悩の異名でもある。ここでの煩悩の内容は、日常語として使われている煩悩とは、かなり意味合いが異なっている。日常語では、煩悩は欲望と同義語として扱われることが多いが、欲望では煩悩の中の欲貪(よくとん)のことだけを指している。もともとの仏教語としての煩悩は、欲望のことだけではなく、普通の意味では欲望とはいえない意味をも含むものである。
五下分結と五上分結は、四向四果(しこうしか、特に四果)の聖者の階梯と密接に関係している。
○五下分結
五下分結(ごげぶんけつ)は、五つの下位の束縛のことである。衆生(人)を俗界に結びつける五つの煩悩(結)である。
三界のうち下方の世界である欲界(感覚で知ることができる世界)に衆生(人)を結びつけ、束縛している五種の煩悩(結)のことであるので、五下分結と名づける。五下分結のあるかぎり、衆生(人)は欲界に生を受ける。
五下分結を完全に断滅すると、欲界には戻らない不還果(ふげんか)を得る。つまり五下分結を断滅すると、阿那含(アナゴン、不還)になる。
五下分結は、次の5つである。
1.身見(しんけん:有身見)
私という不変の存在があるという見解のことである。
私(私の身体、私という心身の集合体)など、とにかく私というものが変わらず存在すると思うことである。
無知に分類される、誤った見解・邪見である。
2.疑惑(ぎわく:疑)
何が真実か分からない状態のことである。
仏道の真実が分らない無知な状態といえる。
3.戒取(かいしゅ:戒禁取見)
こだわりに、とらわれることである。
しきたりや苦行など、いろいろなことにとらわれ、こだわることである。
4.欲貪(よくとん)
激しい欲のことである。
5.瞋恚(しんに)
激しい怒りのことである。
○三結
三結(さんけつ)は、五下分結のうち仏教修行で最初に消える、最初に断ずることのできる三つの煩悩(結)である。
三結を完全に断滅すると、預流果(よるか)を得る。つまり三結を断滅すると、須陀洹(シュダオン、預流)になる。
さらに三結を完全に断滅し、五下分結の残り二つ(欲貪、瞋恚)が薄くなると、一来果(いちらいか)を得る。つまり三結を断滅し、欲貪と瞋恚が薄くなると、斯陀含(シダゴン、一来)になる。
三結は、五下分結のうち、次の3つである。
1.身見
2.疑惑
3.戒取
○五上分結
五上分結(ごじょうぶんけつ)は、五つの上位の束縛のことである。衆生(人)を色界と無色界に結びつける、五つの煩悩(結)である。
三界のうち上方の世界である、色界と無色界に結びつけて、解脱させない煩悩のことであるから、五上分結と名づける。
五上分結を完全に断滅すると、応供果(おうぐか)を得る。つまり五上分結を断滅すると、阿羅漢(アラカン、応供)になる。
仏教修行の最終段階で断滅することのできる、精妙な五つの煩悩(結)のことである。
五上分結は、次の5つである。
1.色貪(しきとん)
色界に対する執着のことで、色界の禅定のすばらしさに対する執着である。
2.無色貪(むしきとん)
無色界に対する執着のことで、無色界の禅定のすばらしさに対する執着である。
3.掉挙(じょうこ)
私は到達した、というような心のたかぶりの感覚である。掉挙とはあまり使わない言葉であるが、心のたかぶりを指している。
私はこの段階まで達したというような達成感のような、心のたかぶりの感覚である。
欲界でも掉挙はあるが、ここでは色界、無色界のかすかで微妙な心のたかぶりである。
4.我慢(がまん、慢)
私がなした、というような慢心の感覚である。ここでは、慢心のことを我慢と呼んでいる。
欲界でも慢はあるが、ここでは色界、無色界のかすかで微妙な慢心である。
5.無明(むみょう)
どうしても最後まで、僅かに残っている根本の無知のことである。
○四果と十結(五下分結、五上分結)の関係
仏教での聖者の段階である四果(しか)と、十結(五下分結、五上分結)の関係をまとめておこう。
1.須陀洹(シュダオン、預流)
五下分結のうち、三結(身見、疑惑、戒取)を完全に断滅すると、預流果(よるか)を得る。
2.斯陀含(シダゴン、一来)
五下分結のうち、三結(身見、疑惑、戒取)を完全に断滅し、五下分結の残り二つ(欲貪、瞋恚)が薄くなると、一来果(いちらいか)を得る。
3.阿那含(アナゴン、不還)
五下分結(身見、疑惑、戒取、欲貪、瞋恚)を完全に断滅すると、不還果(ふげんか)を得る。
4.阿羅漢(アラカン、応供)
五下分結の断滅に加え、五上分結(色貪、無色貪、掉挙、我慢、無明)を完全に断滅すると、応供果(おうぐか)を得る。
阿羅漢(アラカン)へ至るために、五上分結を断滅することはかなり難しい。
2011年5月8日日曜日
四向四果(解脱への階梯)[仏教の基礎知識(6)]
仏教における解脱へ向けた修行の階梯についても説明しておこう。仏教での修行の階梯が、どのように考えられていたかがよくわかる。
四向四果(しこうしか)とは、もともとの仏教(上座部仏教)における修行の段階を表す階位である。
「四向」の「向」とは、修行の目標に向かっている段階を指し、「四果」の「果」とは、修行の結果として到達した境地を示す。「向」と「果」の名称が同じであり、八種の段階が区別されている。
○聖者の四段階(四果)
仏教では、修行の結果として到達する四段階の結果(果)が存在する。
1.預流(よる、須陀洹:しゅだおん)
聖者の流れに入った者のことで、今生を終わった後に、最大7回まで、欲界の人と天の間を生れかわり、その後、ニルヴァーナに入る。
須陀洹とも、預流(聖者の流れに入った者)とも呼ばれる。
2.一来(いちらい、斯陀含:しだごん)
今生を終わった後、1回だけ、欲界の人と天の間を往来して、ニルヴァーナに入る。
斯陀含とも、一来(一度だけ戻って来る者)とも呼ぶ。
3.不還(ふげん、阿那含:あなごん)
今生を終わった後、欲界には再び戻ってこず、色界へと登り、色界の生を終わると同時に、そこからニルヴァーナに入る。欲界には生まれ変わらないが、今生の終わりでは、まだニルヴァーナには至っていない。
阿那含とも、不還(二度と戻らない者)とも呼ぶ。
4.応供(おうぐ、阿羅漢:あらかん)
今生の終りと同時に、ニルヴァーナに入る。今生でニルヴァーナに至り、再び生まれ変わることのない者である。
阿羅漢とも、応供(供養を受けるにふさわしい者)とも呼ばれる。
○四向四果(四双八輩)
修行の結果として到達した四段階(果)に加えて、各々に向かう段階(向)を考えて、四向四果となる。四向四果とも、四双八輩(しそうはっぱい)とも呼ぶ。
1.預流向(よるこう)
須陀洹(預流)へと向かっている者。
2.預流果(よるか)
須陀洹(預流)となった者。
3.一来向(いちらいこう)
須陀洹(預流)から、斯陀含(一来)へと向かっている者。
4.一来果(いちらいか)
斯陀含(一来)となった者。
5.不還向(ふげんこう)
斯陀含(一来)から、阿那含(不還)へと向かっている者。
6.不還果(ふげんか)
阿那含(不還)となった者。
7.応供向(おうぐこう)、または阿羅漢向(あらかんこう)
阿那含(不還)から、阿羅漢(応供)へと向かっている者。
8.応供果(おうぐか)、または阿羅漢果(あらかんか)
阿羅漢(応供)となった者。
そこへ到る途中の段階を加えて、4つの修行段階から、8つの修行段階へと拡張されたわけである。
阿羅漢(応供)となった者は、ブッダ(覚者)である。阿羅漢(応供)は、死後、最高の段階であるニルヴァーナへと到る。仏教の修行階梯では、阿羅漢が最上位である。阿羅漢に至ると、最終的にニルヴァーナに入り、ブッダとなる。
このことから、仏教は最終的には、阿羅漢(応供)となることを目指すものである。阿羅漢(応供)となる方法体系が、仏教の修行体系ということになる。
四向四果(しこうしか)とは、もともとの仏教(上座部仏教)における修行の段階を表す階位である。
「四向」の「向」とは、修行の目標に向かっている段階を指し、「四果」の「果」とは、修行の結果として到達した境地を示す。「向」と「果」の名称が同じであり、八種の段階が区別されている。
○聖者の四段階(四果)
仏教では、修行の結果として到達する四段階の結果(果)が存在する。
1.預流(よる、須陀洹:しゅだおん)
聖者の流れに入った者のことで、今生を終わった後に、最大7回まで、欲界の人と天の間を生れかわり、その後、ニルヴァーナに入る。
須陀洹とも、預流(聖者の流れに入った者)とも呼ばれる。
2.一来(いちらい、斯陀含:しだごん)
今生を終わった後、1回だけ、欲界の人と天の間を往来して、ニルヴァーナに入る。
斯陀含とも、一来(一度だけ戻って来る者)とも呼ぶ。
3.不還(ふげん、阿那含:あなごん)
今生を終わった後、欲界には再び戻ってこず、色界へと登り、色界の生を終わると同時に、そこからニルヴァーナに入る。欲界には生まれ変わらないが、今生の終わりでは、まだニルヴァーナには至っていない。
阿那含とも、不還(二度と戻らない者)とも呼ぶ。
4.応供(おうぐ、阿羅漢:あらかん)
今生の終りと同時に、ニルヴァーナに入る。今生でニルヴァーナに至り、再び生まれ変わることのない者である。
阿羅漢とも、応供(供養を受けるにふさわしい者)とも呼ばれる。
○四向四果(四双八輩)
修行の結果として到達した四段階(果)に加えて、各々に向かう段階(向)を考えて、四向四果となる。四向四果とも、四双八輩(しそうはっぱい)とも呼ぶ。
1.預流向(よるこう)
須陀洹(預流)へと向かっている者。
2.預流果(よるか)
須陀洹(預流)となった者。
3.一来向(いちらいこう)
須陀洹(預流)から、斯陀含(一来)へと向かっている者。
4.一来果(いちらいか)
斯陀含(一来)となった者。
5.不還向(ふげんこう)
斯陀含(一来)から、阿那含(不還)へと向かっている者。
6.不還果(ふげんか)
阿那含(不還)となった者。
7.応供向(おうぐこう)、または阿羅漢向(あらかんこう)
阿那含(不還)から、阿羅漢(応供)へと向かっている者。
8.応供果(おうぐか)、または阿羅漢果(あらかんか)
阿羅漢(応供)となった者。
そこへ到る途中の段階を加えて、4つの修行段階から、8つの修行段階へと拡張されたわけである。
阿羅漢(応供)となった者は、ブッダ(覚者)である。阿羅漢(応供)は、死後、最高の段階であるニルヴァーナへと到る。仏教の修行階梯では、阿羅漢が最上位である。阿羅漢に至ると、最終的にニルヴァーナに入り、ブッダとなる。
このことから、仏教は最終的には、阿羅漢(応供)となることを目指すものである。阿羅漢(応供)となる方法体系が、仏教の修行体系ということになる。
2011年5月7日土曜日
三毒(三不善根)[仏教の基礎知識(5)]
三毒(さんどく)とは、克服すべきものとされる最も根本的な三つの煩悩のことである。
すなわち、貪(どん)、瞋(じん)、癡(ち)を指し、煩悩を毒に例えたものである。
人間の諸悪・苦しみの根源とされている。最古の経典と推定される、南伝仏教のスッタニパータにも、貪、瞋、癡を克服すべきことが述べられている。
更に中部経典においては「三不善根」として記され、3つがまとめて論じられている。三毒(三不善根)は悪の根源であり、それが展開されて十悪となる。
○三毒(三不善根)
1.貪(どん、貪欲:どんよく)
むさぼり、必要以上に求める心のことである。
2.瞋(じん、瞋恚:しんに)
怒りの心のことである。
3.癡(ち、愚癡:ぐち)
真理に対する無知の心のことである。真理を知らないことである。
すなわち、貪(どん)、瞋(じん)、癡(ち)を指し、煩悩を毒に例えたものである。
人間の諸悪・苦しみの根源とされている。最古の経典と推定される、南伝仏教のスッタニパータにも、貪、瞋、癡を克服すべきことが述べられている。
更に中部経典においては「三不善根」として記され、3つがまとめて論じられている。三毒(三不善根)は悪の根源であり、それが展開されて十悪となる。
○三毒(三不善根)
1.貪(どん、貪欲:どんよく)
むさぼり、必要以上に求める心のことである。
2.瞋(じん、瞋恚:しんに)
怒りの心のことである。
3.癡(ち、愚癡:ぐち)
真理に対する無知の心のことである。真理を知らないことである。
2011年5月6日金曜日
三宝(仏、法、僧)[仏教の基礎知識(4)]
仏教の三宝とは、仏教における3つの宝物(仏、法、僧)のことである。この三宝に帰依することで仏教徒とされる。
仏、法、僧について、もう少し詳しく説明すると、次のようになる。
○三宝(仏、法、僧)
1.仏(ブッダ)
ニルヴァーナを達成した、ブッダ(仏)御自身のことを指している。
何々如来、何々観音というような、後から考えられた仏様のことではない。
2.法(ダルマ)
仏陀の説いたダルマ(法)のことである。
3.僧(僧団、修行僧の集団)
仏教のサンガ(僧団、修行僧の集団)のことである。ブッダの教えを受けることで、四向四果(しこうしか)に達した者の集団である。一個人としての僧侶のことではない。
修行の段階である四向四果については、後で説明する。
仏、法、僧について、もう少し詳しく説明すると、次のようになる。
○三宝(仏、法、僧)
1.仏(ブッダ)
ニルヴァーナを達成した、ブッダ(仏)御自身のことを指している。
何々如来、何々観音というような、後から考えられた仏様のことではない。
2.法(ダルマ)
仏陀の説いたダルマ(法)のことである。
3.僧(僧団、修行僧の集団)
仏教のサンガ(僧団、修行僧の集団)のことである。ブッダの教えを受けることで、四向四果(しこうしか)に達した者の集団である。一個人としての僧侶のことではない。
修行の段階である四向四果については、後で説明する。
2011年5月5日木曜日
三界(欲界、色界、無色界)[仏教の基礎知識(3)]
阿含経にある修行体系の説明の前に、仏教では解脱していない通常の人間が住むこの世界をどのように見ているかについて説明しておく必要があるだろう。
仏教の世界観では、三界(欲界、色界、無色界)と呼ばれる3つの世界が、この世を構成している。
色界、無色界は、禅定の説明でも出てくる言葉である。それゆえ、この三界についての概略は知っておくべきである。
仏教では、この世界は三界(欲界、色界、無色界)から成り立っていると考えている。三界は、欲界、色界、無色界の3つ世界の総称である。解脱していない通常の人間が、生死を繰り返しながら輪廻する世界が、この3つの世界である。
1.欲界(よくかい)
欲望にとらわれたものが住む世界である。
欲界とは、欲のある世界という意味である。
通常のわれわれ人間の住む世界は、この欲界に属する。普通の意味での地上世界は、欲界に属する。
2.色界(しきかい)
欲望はほとんど超越したが、まだ物質的な形のある世界(色)であり、形にとらわれたものが住む世界である。
色界とは、欲はほとんどないが、まだ形のある世界という意味である。
色界とは、形あるものの世界のことで、「色」とは形あるものの訳語として用いている。この形あるものは、変化し、壊れ、一定の空間を占めている世界である。
現在語での誤解なきように書いておくが、色界とは、色恋沙汰や色情の世界のことではない。
3.無色界(むしきかい)
欲望も超越し、物質的な形もない世界(無色)であり、ただ精神作用のみがある世界である。
無色界とは、欲もなくなり、すでに形もない世界という意味である。
無色界とは、形なきものの世界のことで、形はないが精神作用のみが存在する世界である。
輪廻する者は、この3つの世界のどれかに住むと考えられている。たとえ、高い禅定の世界である無色界の住人であろうと、三界に住む者はまだ輪廻の渦中にあり、最終的な解脱は果たしていない。
色界、無色界も、通常、人間が五感で感じられる世界ではなく、深い禅定(瞑想)の中でのみ感じられる世界である。人間の住む欲界と比べると、色界、無色界はかなり高い禅定の世界であり、天界と呼ばれる。
ニルヴァーナへと到れば、この三界の住人ではなくなり、輪廻から解脱したことになる。
仏教の世界観では、三界(欲界、色界、無色界)と呼ばれる3つの世界が、この世を構成している。
色界、無色界は、禅定の説明でも出てくる言葉である。それゆえ、この三界についての概略は知っておくべきである。
仏教では、この世界は三界(欲界、色界、無色界)から成り立っていると考えている。三界は、欲界、色界、無色界の3つ世界の総称である。解脱していない通常の人間が、生死を繰り返しながら輪廻する世界が、この3つの世界である。
1.欲界(よくかい)
欲望にとらわれたものが住む世界である。
欲界とは、欲のある世界という意味である。
通常のわれわれ人間の住む世界は、この欲界に属する。普通の意味での地上世界は、欲界に属する。
2.色界(しきかい)
欲望はほとんど超越したが、まだ物質的な形のある世界(色)であり、形にとらわれたものが住む世界である。
色界とは、欲はほとんどないが、まだ形のある世界という意味である。
色界とは、形あるものの世界のことで、「色」とは形あるものの訳語として用いている。この形あるものは、変化し、壊れ、一定の空間を占めている世界である。
現在語での誤解なきように書いておくが、色界とは、色恋沙汰や色情の世界のことではない。
3.無色界(むしきかい)
欲望も超越し、物質的な形もない世界(無色)であり、ただ精神作用のみがある世界である。
無色界とは、欲もなくなり、すでに形もない世界という意味である。
無色界とは、形なきものの世界のことで、形はないが精神作用のみが存在する世界である。
輪廻する者は、この3つの世界のどれかに住むと考えられている。たとえ、高い禅定の世界である無色界の住人であろうと、三界に住む者はまだ輪廻の渦中にあり、最終的な解脱は果たしていない。
色界、無色界も、通常、人間が五感で感じられる世界ではなく、深い禅定(瞑想)の中でのみ感じられる世界である。人間の住む欲界と比べると、色界、無色界はかなり高い禅定の世界であり、天界と呼ばれる。
ニルヴァーナへと到れば、この三界の住人ではなくなり、輪廻から解脱したことになる。
2011年5月4日水曜日
四諦(四聖諦、苦集滅道)[仏教の基礎知識(2)]
四諦とは、ブッダが説いた、四つの真理(苦、集、滅、道)のことである。
四諦は、四諦の法門、四聖諦とも呼ばれる。ここで「諦」とは「明らかにすること」、「真理」とでもいう意味で用いている。
○四諦(四聖諦)
① 苦諦(くたい)
② 集諦(じゅうたい)
③ 滅諦(めつたい)
④ 道諦(どうたい)
四諦の各々について、もう少し詳しく解説しておこう。ブッダは基本的に、人間のこういう人生の真相を認識していたがゆえに、苦を滅した状態(ニルヴァーナ)へと到る方法を説いたのである。
1.苦諦
苦諦とは、人生が苦であるということである。
苦とは、人生の真相、現実であり、ブッダの人生観の根本である。そして、これこそ人間の生存自身のもつ必然的な姿である。このような人間存在の苦を示すために、仏教では四苦を説き、さらには四苦八苦を説いている。
四苦とは、次のものである。
① 生(生きること)
② 老(老いること)
③ 病(病気になること)
④ 死(死ぬこと)
さらに四苦八苦という場合には、次のものを付け加える。
⑤ 愛別離苦(愛する対象と別れねばならない苦)
⑥ 怨憎会苦(憎む対象に出会わなければならない苦)
⑦ 求不得苦(求めても得られない苦)
⑧ 五陰盛苦(人間の生存自身を示す苦、五陰を集めたものすべてが苦)
2.集諦
集諦とは、さまざまな悪因を集めたことによって、苦が現れたものであるということである。
「集」とは招き集めることで、苦を招き集めるものが、煩悩であるというのである。
仏教において、苦の原因の構造を示して表しているのは、十二因縁(十二縁起)である。十二縁起とは、苦の12の原因とその縁を示している。だから、無明も渇愛も、苦の根本原因である。
3.滅諦
滅諦とは、苦のなくなった状態のことである。
苦の滅という状態が存在することであり、苦のなくなった状態とは、ニルヴァーナの境地であり、一切の煩悩から解放された境地であり、解脱といえる。
4.道諦
道諦とは、苦を滅した状態(ニルヴァーナ)を獲得する方法のことである。
つまり、ニルヴァーナへと到る実践的な修行体系を指している。これが仏道と呼ばれるもの、すなわちブッダの体得した解脱への道である。
その具体的な方法は、後で詳しく説明する七科三十七道品といわれる修行体系である。
四諦は、四諦の法門、四聖諦とも呼ばれる。ここで「諦」とは「明らかにすること」、「真理」とでもいう意味で用いている。
○四諦(四聖諦)
① 苦諦(くたい)
② 集諦(じゅうたい)
③ 滅諦(めつたい)
④ 道諦(どうたい)
四諦の各々について、もう少し詳しく解説しておこう。ブッダは基本的に、人間のこういう人生の真相を認識していたがゆえに、苦を滅した状態(ニルヴァーナ)へと到る方法を説いたのである。
1.苦諦
苦諦とは、人生が苦であるということである。
苦とは、人生の真相、現実であり、ブッダの人生観の根本である。そして、これこそ人間の生存自身のもつ必然的な姿である。このような人間存在の苦を示すために、仏教では四苦を説き、さらには四苦八苦を説いている。
四苦とは、次のものである。
① 生(生きること)
② 老(老いること)
③ 病(病気になること)
④ 死(死ぬこと)
さらに四苦八苦という場合には、次のものを付け加える。
⑤ 愛別離苦(愛する対象と別れねばならない苦)
⑥ 怨憎会苦(憎む対象に出会わなければならない苦)
⑦ 求不得苦(求めても得られない苦)
⑧ 五陰盛苦(人間の生存自身を示す苦、五陰を集めたものすべてが苦)
2.集諦
集諦とは、さまざまな悪因を集めたことによって、苦が現れたものであるということである。
「集」とは招き集めることで、苦を招き集めるものが、煩悩であるというのである。
仏教において、苦の原因の構造を示して表しているのは、十二因縁(十二縁起)である。十二縁起とは、苦の12の原因とその縁を示している。だから、無明も渇愛も、苦の根本原因である。
3.滅諦
滅諦とは、苦のなくなった状態のことである。
苦の滅という状態が存在することであり、苦のなくなった状態とは、ニルヴァーナの境地であり、一切の煩悩から解放された境地であり、解脱といえる。
4.道諦
道諦とは、苦を滅した状態(ニルヴァーナ)を獲得する方法のことである。
つまり、ニルヴァーナへと到る実践的な修行体系を指している。これが仏道と呼ばれるもの、すなわちブッダの体得した解脱への道である。
その具体的な方法は、後で詳しく説明する七科三十七道品といわれる修行体系である。
2011年5月3日火曜日
縁起の法(仏教の世界観)[仏教の基礎知識(1)]
縁起の法は、仏教の根本的な教説である。仏教における縁起は、仏教の根幹をなす思想の一つである。
縁起の法は、ブッダが自身の悟りの内容を、分りやすく表現しようとしたものとされている。この縁起の法は、「縁起を見る者は法を見る、法を見るものはわたしを見る」ともいわれる根本的な説である。
ここでいう「縁起」とは、縁によってて起こることを意味する。縁によってとは、条件によってという意味であり、現象あるいは存在の相互依存関係を表している。
縁起の語は、「因縁生起」の略からきている。「因」とそのは原因のことであり、「縁」とはその生じる条件のことである。
世界の一切は、直接にも間接にも、何らかのかたちで、それぞれ関わり合って生滅変化しているという考え方を指している。
「わたしの悟った縁起の法は、深甚微妙であり、一般の人の知りがたく、悟りがたいものである。」
縁起の法は、ブッダによって説かれた思想ではあるが、「この法則は、如来(ブッダ)が世に出ても出なくても、それに関係なく、法として定まり決定しているもの」とされる。つまり縁起の法は、すでに法則として、この世界に存在している法則自体であるということである。
縁起の法の基本となる考え方は、次の文章で示される。
これあればかれあり、
これ生ずるが故にかれ生ず。
これなければかれなし、
これ滅するが故にかれ滅す。
最初、この文章を読んだときには、当たり前のことすぎるようにも思え、これにどんな重要な意味があるのか、なかなか理解に苦しんだ。
しかし「これあればかれあり」とは、「苦」の存在する理由、「これ滅するが故にかれ滅す」とは、「苦」を滅する「道」が存在することを示している。
縁起の法があるからこそ、「苦」を「滅」する「道」であるニルヴァーナへと到る修行体系が生まれるのである。「これ滅するが故にかれ滅す」により、ニルヴァーナへと到り、解脱する方法がある。
縁起は、「これあればかれあり」「これなければかれなし」という二つの定理によって、簡潔に述べられうる。後者の「これなければかれなし」は、前者の「これあればかれあり」を証明し、補完するものである。
具体的な例としては、「生がある時、老いと死がある」「生がない時、老いと死がない」の二つがあげられる。なぜなら、生まれることがなければ、老いることも死ぬこともないからである。
縁起の法から、次の四諦(四つの真理)と呼ばれる思想が生まれる。
縁起の法は、ブッダが自身の悟りの内容を、分りやすく表現しようとしたものとされている。この縁起の法は、「縁起を見る者は法を見る、法を見るものはわたしを見る」ともいわれる根本的な説である。
ここでいう「縁起」とは、縁によってて起こることを意味する。縁によってとは、条件によってという意味であり、現象あるいは存在の相互依存関係を表している。
縁起の語は、「因縁生起」の略からきている。「因」とそのは原因のことであり、「縁」とはその生じる条件のことである。
世界の一切は、直接にも間接にも、何らかのかたちで、それぞれ関わり合って生滅変化しているという考え方を指している。
「わたしの悟った縁起の法は、深甚微妙であり、一般の人の知りがたく、悟りがたいものである。」
縁起の法は、ブッダによって説かれた思想ではあるが、「この法則は、如来(ブッダ)が世に出ても出なくても、それに関係なく、法として定まり決定しているもの」とされる。つまり縁起の法は、すでに法則として、この世界に存在している法則自体であるということである。
縁起の法の基本となる考え方は、次の文章で示される。
これあればかれあり、
これ生ずるが故にかれ生ず。
これなければかれなし、
これ滅するが故にかれ滅す。
最初、この文章を読んだときには、当たり前のことすぎるようにも思え、これにどんな重要な意味があるのか、なかなか理解に苦しんだ。
しかし「これあればかれあり」とは、「苦」の存在する理由、「これ滅するが故にかれ滅す」とは、「苦」を滅する「道」が存在することを示している。
縁起の法があるからこそ、「苦」を「滅」する「道」であるニルヴァーナへと到る修行体系が生まれるのである。「これ滅するが故にかれ滅す」により、ニルヴァーナへと到り、解脱する方法がある。
縁起は、「これあればかれあり」「これなければかれなし」という二つの定理によって、簡潔に述べられうる。後者の「これなければかれなし」は、前者の「これあればかれあり」を証明し、補完するものである。
具体的な例としては、「生がある時、老いと死がある」「生がない時、老いと死がない」の二つがあげられる。なぜなら、生まれることがなければ、老いることも死ぬこともないからである。
縁起の法から、次の四諦(四つの真理)と呼ばれる思想が生まれる。
2011年5月2日月曜日
仏教の基礎知識
修行体系の説明に入る前に、仏教の基礎知識として知っておくべき事柄がある。あらかじめ知っておかないと、これらの言葉が出てきたときに、何を意味するものか理解が困難となる。
そのため、最初に仏教の基礎知識について説明しておくことにしよう。これらの基本的な知識がないと、後で説明する内容の意味が正確に伝わらないからである。
他にも基礎知識としては存在するが、それらは必要となった時点でまた説明することとしよう。
○仏教の基礎知識
1.縁起の法(仏教の世界観)
2.四諦(四聖諦、苦集滅道)
3.三界(欲界、色界、無色界)
4.三宝(仏、法、僧)
5.三毒(三不善根)
6.四向四果(聖者の位)
7.五下分結と五上分結
8.阿含経(最初期の経典)
そのため、最初に仏教の基礎知識について説明しておくことにしよう。これらの基本的な知識がないと、後で説明する内容の意味が正確に伝わらないからである。
他にも基礎知識としては存在するが、それらは必要となった時点でまた説明することとしよう。
○仏教の基礎知識
1.縁起の法(仏教の世界観)
2.四諦(四聖諦、苦集滅道)
3.三界(欲界、色界、無色界)
4.三宝(仏、法、僧)
5.三毒(三不善根)
6.四向四果(聖者の位)
7.五下分結と五上分結
8.阿含経(最初期の経典)
2011年5月1日日曜日
ブッダが目指したもの(仏教の目的)
ブッダが目指したものは、何であろうか。仏教で修行の目的とは、何なのであろうか。
日本でのお寺参りによくあるような、何々如来様、何々観音様にお願いして、ご利益を頂くことであろうか。これは、単にご利益信仰というべきであり、もともとのブッダが目指したもの、仏教が目的とするところとはいえない。
総じて日本の仏教は、インドから中国を経て日本化された仏教であり、最初期の仏教とは、その目的も内容も、かなりかけ離れてしまっているといえる。
最初期の仏教の目的は、ニルヴァーナ(涅槃)に到ることである。ニルヴァーナに入ることを、仏教では解脱ともいう。解脱とは、輪廻転生からの解放でもある。
インド思想では、人は輪廻転生を繰り返すという。仏教でもこの考えは取り入れられ、輪廻転生から解放されることを解脱と呼ぶ。解脱した人のことを、ブッダ(仏陀)と呼んでいる。
こういうことから、仏教とはニルヴァーナへ到ることを目指し、ブッダへと到る道である、ということができる。
付け加えるならば、ここでいうニルヴァーナ(涅槃)とは、死ぬことではない。仏教の目指す最高の境地のことを指している。
誤解を生みやすい涅槃という言葉を使わず、最高の境地をなるべくニルヴァーナと呼ぶことにしたい。
ブッダは、ニルヴァーナについての詳しい説明はせず、実際に修行して体験するべきものとして、ただ例えを述べているだけである。そのため後世、ニルヴァーナついて、さまざまに解釈される余地が残った。
ニルヴァーナへと到った者は、ブッダ(仏陀)と呼ばれる。ブッダ(仏陀)とは、もともとは固有名詞ではなく、悟った人(覚者)という意味である。
普通は、仏教の開祖であるゴータマ・シッダルタのことを、ブッダ(仏陀)と呼んでいる。
ゴータマ・シッダルタは、シャカ(釈迦)族の王族の出身であるので、お釈迦様とも呼ぶ。
さらに釈迦牟尼(シャカムニ)と呼ばれることもある。ムニ(牟尼)とは聖者のことであるので、釈迦牟尼とは、シャカ族の聖者という意味である。
歴史上のブッダの称号には、この他にもいろいろあるのだが、あまりに煩雑なので、別の機会があれば説明することにしたい。
ここでは歴史上の実在の人物として、仏教の開祖であるゴータマ・シッダルタのことを、ブッダと呼ぶことにしよう。
ブッダが説いたことで、一番重要なことは、ニルヴァーナへ到る方法である。何しろ仏教の目的が、ニルヴァーナへ到ることであるのだから。
では、ブッダが説いたニルヴァーナへと到る修行過程とは、どのようなものであるのか。どのように修行すれば、ニルヴァーナへ到り、仏陀(覚者)となることができるのか。
実はこのニルヴァーナへと到る修行過程は、最初期の仏教経典である阿含経にしか説かれていないのである。
日本でのお寺参りによくあるような、何々如来様、何々観音様にお願いして、ご利益を頂くことであろうか。これは、単にご利益信仰というべきであり、もともとのブッダが目指したもの、仏教が目的とするところとはいえない。
総じて日本の仏教は、インドから中国を経て日本化された仏教であり、最初期の仏教とは、その目的も内容も、かなりかけ離れてしまっているといえる。
最初期の仏教の目的は、ニルヴァーナ(涅槃)に到ることである。ニルヴァーナに入ることを、仏教では解脱ともいう。解脱とは、輪廻転生からの解放でもある。
インド思想では、人は輪廻転生を繰り返すという。仏教でもこの考えは取り入れられ、輪廻転生から解放されることを解脱と呼ぶ。解脱した人のことを、ブッダ(仏陀)と呼んでいる。
こういうことから、仏教とはニルヴァーナへ到ることを目指し、ブッダへと到る道である、ということができる。
付け加えるならば、ここでいうニルヴァーナ(涅槃)とは、死ぬことではない。仏教の目指す最高の境地のことを指している。
誤解を生みやすい涅槃という言葉を使わず、最高の境地をなるべくニルヴァーナと呼ぶことにしたい。
ブッダは、ニルヴァーナについての詳しい説明はせず、実際に修行して体験するべきものとして、ただ例えを述べているだけである。そのため後世、ニルヴァーナついて、さまざまに解釈される余地が残った。
ニルヴァーナへと到った者は、ブッダ(仏陀)と呼ばれる。ブッダ(仏陀)とは、もともとは固有名詞ではなく、悟った人(覚者)という意味である。
普通は、仏教の開祖であるゴータマ・シッダルタのことを、ブッダ(仏陀)と呼んでいる。
ゴータマ・シッダルタは、シャカ(釈迦)族の王族の出身であるので、お釈迦様とも呼ぶ。
さらに釈迦牟尼(シャカムニ)と呼ばれることもある。ムニ(牟尼)とは聖者のことであるので、釈迦牟尼とは、シャカ族の聖者という意味である。
歴史上のブッダの称号には、この他にもいろいろあるのだが、あまりに煩雑なので、別の機会があれば説明することにしたい。
ここでは歴史上の実在の人物として、仏教の開祖であるゴータマ・シッダルタのことを、ブッダと呼ぶことにしよう。
ブッダが説いたことで、一番重要なことは、ニルヴァーナへ到る方法である。何しろ仏教の目的が、ニルヴァーナへ到ることであるのだから。
では、ブッダが説いたニルヴァーナへと到る修行過程とは、どのようなものであるのか。どのように修行すれば、ニルヴァーナへ到り、仏陀(覚者)となることができるのか。
実はこのニルヴァーナへと到る修行過程は、最初期の仏教経典である阿含経にしか説かれていないのである。
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